信じるか信じないかはあなた次第です

日々

フラット

客観的に物事を見ようとすればするほど、実はどっちかに偏ってしまう事が多い。そもそも客観的という概念があるだけで実際に実在するわけではないからだね。公正かつ平等という言葉の本質は実際にはそうではないからこそ、それらの言葉の重みがでてくるわけだ。どこにもないここではないどこかの理想郷を目指そうという意思を忘れないでいよう。そう語りかけ後世にも引き継ぐための表現の一部だね。だから何人たりともフラットに物事を考えることはまったくもってできないのが真実であり前提条件であることに注意した方がいい。何でも理屈で論破できると思っている人の発言はそれ自体あなたの心を揺るがすパワーを持っている。けれど残念ながらそれで状況が良くなることはない。ならその言葉の本質は一体なんのためだったんだろうと気づくことが大事だね。

ポジショントーク

あらゆる言説はポジショントークであることは明白な事実だね。それを如何にそうではないかのごとく振る舞える人の発言が影響力を帯びるわけで、すべてが何らかの立場でのイデオロギーがあるからこその意見であり、それに対する批判である。だからそれらをひっくるめてポジショントークだと指摘することは誰でもいつでもできることなんだよ。目の前の川を見て、やっぱり川は流れ続けている、なんて言っても「お、おう」としか答えがないよね。そういう発言をすることで調子を狂わせる効果を狙ってわざとしているだけのこと。だから「それってあなたの感想ですよね」なんて言う有名な人がいるけれど、そう言われても「お、おう」ぐらいの反応しかできないのが普通なんだよ。とても巧みに相手のリズムを狂わせる技法に長けていてもはやエンタメ化しているのは、もう一芸と言っても差し支えないほどの素晴らしさを持っているね。

議論と討論

理屈っぽく言えば議論はより良い結論を導き出すためのもので、討論はどちらの意見が適切かどうかの結論を出すためのもの。だから討論は最初から結果ありきでのものであって、議論はその結果思わぬ結論になってしまったりする。科学的なエビデンスに基づく議論は、根底として観察結果や十分な再現可能性を担保した実験結果を礎にしてその先の仮説を立てて検証するというもの。だから、思わぬ結果になることはまれだね。更に言うと再現性を重視するあまり複雑で不安定なパラメータを排除して純粋に観察対象の一部だけを取り扱うことが多くなる。だからたとえそれが実証できたとしてもそれが現実社会の現象とマッチするかどうかはさらにその応用のための別検証を必要とすることが多いね。だからいずれにせよエビデンスに基づくとしても、それが100%当てはまることはないし、まぁそんなもんだろうという暗黙の了解がそこにはあるね。再現性として6割以上あれば何らかの相関関係がある可能性が高まったというところで落とし所になる。一方でそんな程度ならば、トンデモ理論でも当てずっぽうで大丈夫かもしれないという側面での意見があった方が、フラットであるという意味においては必要なことかもしれないよね。ここでいちばん大切なことは「これこそが正義」「これが正解」なんて思ってしまうことが一番危ないということ。これだけは忘れないでいようね。