幸せのために犠牲にしている

日々

得ると失うもの

豊かな生活のため、仕事を得て楽しく働く。いい感じ。すると収入が多少多くなる。今まで見えてない世界が見えるようになって、支出も多くなる。それって必要?っていうものも欲しくなってくる。欲望がどんどん成長して大きくなる。さらに頑張って多少やりたくないことも我慢してやっていると、今まで手に入れられないと思っていたものが手に届く範囲に近づいてくる。おお。ついにここまでこれたかと感嘆する。組めなかったローンが組めるようになって手に入れることが見えてくる。思い切って買っちゃうかと心悩ませる。

一方で、突然思っていたようには収入は上がらず焦りだす。ここは踏ん張り時と、さらにつらい仕事を、とっても我慢しながらも、あと少し、もう少しとあれこれ考え始める。もっと楽にお金稼げないのかなと金儲けの情報を探し始める。そうなると、いつもいつもお金のことばかりが頭の中をグルグル回って、ストレスがどんどんたまる。そのストレスをどうにか解消するために、なけなしのお金でもって「たまのご褒美」と解消する。今まではこんなことにお金使わなくても楽しかったのになーと思いながら。

何かを得るための見えない支出がどんどん大きくなっていることに気づかない。あれ?なんでこんなにうまく行かないのか、こんなにストレスを抱えて、我慢して頑張っているのにも関わらず、「働けど働けど猶わが生活(暮らし)楽にならざりぢっと手を見る」とつぶやく。

それでも同僚からは「羨むような幸せそうな暮らし」を手に入れているのに、全く心は満たされない。どうやらおかしいな。世間並みの幸せを手に入れるにはどうもお金がたくさんあるということではないみたい。幸せを掴んだと思っても、それはまるで雲をつかむがごとく、手にひらからすり抜けてつかめない。なんだかずっとそれを繰り返している。

頑張って働くことは美徳

いろんなことを犠牲にしても愛する人のため、自分のため、守るべきもののために額に汗して働く。すると幸せになれるよと約束された、あこがれの暮らしはいったいどこにあるんだろうか。蜃気楼のようにそこに存在しているように世間は見せているけれど、投射された幻影みたいに近づいても近づいても遠ざかっていく。

TVショーでは、有名人の成功話や立派な豪邸やスポーツカーを紹介している。皆努力して頑張れば手に入れることができる。夢は現実に叶うんですねぇとコメンテーターが伝える。そこまで立派じゃなくても、慎ましやかな我が家を35年ローンで手に入れることができると番組のスポンサーのコマーシャルが流れる。日曜日の午後には国民的アニメが理想の家族を放映している。見ていると日常の些細な出来事を幸せそうに描いている。なんとなく幸せとはこういう姿なんだろうと思って晩御飯を食べながら我が家の子どもたちも猫も一緒に見ている。

幸せってどこにあるのだろう。この間の有名人は不祥事を起こして世間からバッシングを受け、もうTVショーには映らなくなった。彼は何を手にしていたんだろう。
そんなことより私の幸せは、あとどれくらい我慢すればいいのだろう。