集中
我を忘れる
なにかに夢中になっていたり、少し集中したりすると自分がいなくなるね。いつもの愚痴や不安や悪口を考える暇もなくただただそのもの自体にすっかり自分が溶け込んでしまって一体化している感じがするね。そしてふーっとため息一ついつものわがままな自分に戻ると、やれ才能がないとかうまくいかないのは何がたりないせいだとか環境に恵まれないからだとかそういう類いの日常世界を取り戻すわけだね。それを何度も繰り返すことで自分と意識の輪郭を感じ取っている。逆にずっと没頭したり熱中しているとまさに我を忘れた状態が続いていつもの自我がぼんやりしてよくわからなくなるね。
何もしていない
それだけ集中しているけれど、実は何もしていないということに愕然とするだろう。そもそも意識の動きをたまたまそう呼んでいるだけであって、集中も自我もあるようでない概念でしかない。概念というのはそういうものだとなんとなくとりあえず決めているだけの印だね。集中、熱中、自我、なんかはありそうな「ない」ものを表している。今まさに平和について問われているけれども実は平和の定義はしっかりとありそうで、実は何をもって平和というかはどこにもなかったりする。だから何かをしているというのも概念であって、単にそう思いこんであるように印をつけているだけで実はなにもしていないということと同義でもある。そもそも集中したところで指一本動かせないし、呼吸をとめたり心臓の鼓動をコントロールしたり消化吸収を思い通りに調整したりすることはできないね。すべては気がついたらそうなっているだけでしかない。
意識の動き
ところが意識は意識することができる。瞬きすることで眼球があることがわかるようにね。それですべては意識の動きでそう見えていることに気づく。映像が見えているからそう思っている。すべては意識より先に何かがただ起こっているだけに過ぎず、それを自らがやったと後で辻褄を合わせているだけなんだ。だから悩んだり不安になったりするのは、ホラー映画を見ていたり、ゲームをやっていたりするときのドキドキと同じということになる。現実はより厳しいと思っているだろうけれど仕組みは同じだね。ということは逆に言えばあなたが消えない限り心配することはないわけでもある。意識がそれをそのように見せているだけなら意識の向きが少し変化すればがらりと見える世界は変わるということ。ならば「全集中の呼吸」モードで生きると楽そうだね。