自由の反対側
自由
バイクで知らない街を走っている。風が心地よく通り過ぎて懐かしい匂いを感じながらのんびり流す。次の交差点を右に行っても左に行っても先を急ぐ旅ではないのでどちらでもいい。なんなら止まってお茶でも飲んでじっくり考えてもいい。東の空では自由と戦って命が失われているのに、ここはどこへ向かうかをお茶を飲みながらのんびり考えられる余裕がある。やっぱり自由は素晴らしいと感じられるね。それはカタチがあるわけでもなく、それは触ったりできるものでもなく、心穏やかなひとときを過ごせて、明日のために命がけで誰かの命を狙うことをしなくてもいいこと。そんな何気ない時間を得るために、我が子や未来の仲間のために四の五の言わずに戦っているなんて、どう考えても矛盾しているね。
見えないレール
完全な自由なんて存在しないね。なんだかんだ言ってもやらなければならないこともある。休日を得るために平日は嫌いな仕事を耐えながら辛い思いをしているのかもしれない。のんびりするために忙しく働く時間が必要だったりする。普段からのんびり過ごしていると、何がのんびりなのかがだんだんよくわからなくなるからね。緩急というかメリハリというかそんなものをどうやって感じているのかというと、それはなんらかのものさしが必要であることがわかる。それは自由か不自由かを判定してくれる便利なやつだね。そのものさしをまじまじとよく見てみると、自由主義経済社会と書いてある。すなわち資本主義のこの国での自由を測ることができるものらしい。ああ、そんなものを測ることさえ、ものさしを自由に選ぶこともできず、もっと言えば目盛りを自らで決めることもままならなかったりする。ああ、本当の自由は一体どこにあるのだろうとうなだれてしまうかもしれないね。
自由の扉
そのからくりがわかると、自由か不自由かとか、そんなこともコントロールされていることに気づく。さらに言えば自由なんて概念は、平和や平等と同じくありそうでありえないものだということにも気づく。ないものを求めるためにいろんなものを犠牲にすることが定められている唯一のことだと知るとき、あなたは自由なんて求めることが不自由の入り口に立っているどころか、その塩梅も社会の思惑通りだということにびっくりするかもしれない。そう、ゲームの中のマリオのようにあなたはすべてをコントロールされているに過ぎないわけだね。そこから脱却するには自由だと思っている自分をよく観察すること。そしてそれは自由だというレールの上を走らされているだけで外から見ればしっかりと規定通りに動作しているだけだということ。だからこそ幻想なんだけれども、それを知ることで何かが変わるね。それが本当の自由の扉だよ。