思い通りにならない喜び
当てが外れる
想像した通りに、意図した通りに物事が進むと「うまくいった」とあなたは喜ぶ。けれどそれは本当に喜ぶべきことなんだろうか。そもそも「うまくいく」という裏には「うまくいかない」ことが潜んでおり、それほど喜ぶという裏側にはほとんどが「うまくいかない」ことのほうが圧倒的に多いからだね。あなたの思うがままにことが運ぶとあなたはとても満足するのは、裏返すとほぼすべてがあなたの予想や都合を裏切ってきた証でもある。それをときには「成功」と呼んだりするけれども、それは何に対して「成功」したんだろうか。あなたが思ったこと以外の道筋や選択肢はなかったんだろうか。ちょっと意地悪な言い方かもしれないけれど、そんなことはありえないことをあなたが一番良く知っているはずだね。だってこれまでまったくもってあなたの望む形での出来事はほんの少ししかないのだからね。
分析と反省
これまでどんなに工夫したり頑張ってみても結果が思ったとおりにならなかったね。何が悪いのか、何が足りないのか、そればかり考えてそれこそ吟味してきたわけだ。そのトライアンドエラーの中でまれに良い結果が生まれることがある。そんなときあなたは小躍りするわけだけれども、それが一体何がどうでそうなったのかをあなたなりに分析はしているつもりでも、それまでうまくいかなかったところを鑑みるとその分析もおそらくは当てにはならないだろうね。そもそもあなたの分析力が優れているならばもう少し思い通りにことが運んできたはずだね。ところがそうではなく、ほとんどまぐれでうまくいくことがあるというならば、その要因はおそらくはあなたが考察している範囲外にあるだろう。そもそもあなたにはそれが何であるかを見つけることはできないというわけだ。
可能性
当てが外れることは失敗であり失意を感じて、思っていた通りだと成功だと喜びを感じる。なんとなく当たり前だと思っているその構造自体がそもそも間違っているかもしれないね。あなたの世界であなたがわかる範囲で予想があたったとしても逆に言えばかなり限定された要素が揃っただけで、おそらくはあなたを超えた世界ではイレギュラーで大失敗かもしれない。あなたが認識できるごく限られた範囲での判断がなんの意味をもつのだろう。そういう意味ではあなたの想像を超える日常があるからこそ、あらゆることが起こり得る可能性がそこに無限にある。その何が起こるかわからない、ということをまさに体験していることこそが喜びであり、あなたの視点という狭隘な世界で何かがどうであるなんてちっぽけすぎるね。ああ、またうまくいかなかったな、なんて言いながら無限の世界を感じながら微笑んでいる。それが人生の一端を触った瞬間かもしれないね。