論理バカ
飾らない
いつも率直にまっすぐ生きたいのに、なぜか現実には虚栄をはったり、嘘をついたりして装飾を付けないと生きていけないね。それも知らずしらずのうちにしている。まるであなたがあなた以外の誰かに操られているようにね。あなたの心はできれば素直で嘘がないようにしたいと思っていることは間違いないのだけれど、ついついあの場ではそう言わざるを得なかったということを数多く体験してきた。なぜ心と裏腹の行動をしてしまうのか。そうしないと生きづらいと感じているからだね。素直に非を認めたり率直に諫言したりすると馬鹿にされたり足元見られて後々面倒だからだね。でもそんな風になると思い込んでいるだけかもしれないよ。そんなことになるに違いないと信じてるからこそ、ほらやっぱり、という世界をあなたがわざわざ創り出しているとしたら、自作自演も甚だしくさすがのあなたも呆れてものが言えないだろう。
感じるがまま
あなたが直感的に感じた世界は、ほぼそのままそうなんだよ。まだ言語化されず理屈でこねくり回す前のほんの僅かな瞬間に感じるそれがそうだね。ちょっと曖昧に表現せざるを得ないのはそれを言葉化しようとした瞬間に全く違うものに当てはめられるからそうなるね。言葉というツールにそれをそのままの形で翻訳することはほぼできない。それだけ言葉は万能のように見えてそうでもない。そしてそれはそういう場面でその限界が見えることが多く、普段は言葉万能の世界にどっぷり浸かっているわけだ。これもそうだけれど、こうして文字にしないと記録さえままならないね。今の世を生きる世代だと文字よりも映像や音楽として変換するほうがいいかもしれない。そうやってあなたが思うがままにできるだけ近づけられるとそれだけで何かを超えた感覚を得ている。
論理の限界
理屈の世界と論理的整合性の中でほとんどのことが評価され、正しさを担保されている。それを拠り所にせざるを得ないのが現代社会のほとんどの部分だね。それがとても生きづらいと思うのなら、あまりそれだけに固執しないほうがいいね。もちろんすべてを捨てるわけにはいかないだろうから、少なくともあなたの世界にそれらをすべて停止する瞬間を持つといい。ところが感覚と論理がずれていることすら感覚ではなく論理的に検証しようとしてしまうので実際は全くうまくいかないね。だから、白黒つけるというか辻褄を合わせないといけないという前提の言語化を一旦は放棄して、それ以外の表現方法があるといいかもしれない。それは歌ったり踊ったりして目の前のことだけに没頭するのが古来から伝統としてあるね。もしくは今流行の瞑想もそう。とにかくその数分でも数十分でも思考回路のリセットの方法をあなたなりに持つようにすることをおすすめするよ。