道祖神の招き

バイク旅

旅のかたち

昔から旅行の目的といえばその土地の名所を観光したり、その土地の美味しいものを食べたりすることがメインになっている。最近ではパワースポットなどと喧伝されたりしているところも追加されているね。国内でも海外でも有名観光地になればその土地に潤沢なお金が集まるからという理由でそうなっている場合もある。だからいく先々でここに来たらここは外せない超有名スポットだ、などと人々は口を揃えて主張するわけだ。ところが旅にもいろんな形があって良いはずだね。ただ見知らぬ土地を訪れてその文化を楽しんだり、観光地ではなくてあなたが感じるままの場所や、ふと立ち止まった場所でその雰囲気を感じてのんびりするのも良いし、経済的な貨幣の流通では問題があるだろうけれども何も高いお土産を買うこともない。今ではスマホで景色を撮りたいがために出かける人が多数いたりするのでそれらをデータベース化したらほとんど見られない有名どころの景色は皆無に等しい。

記憶のアルバム

人の記憶は曖昧で、時間が経つにつれぼんやりとしてしまうね。だから後々それらの映像や動画を見返すと、そうそうここではこんなことがあったなどと思い出話に花を咲かせることができるだろう。でも何もそれらがなくても出来るはず。今では各名所に関してありとあらゆる画像を見ることができる。それなのに記念撮影とかで大量にデジタルな記録に残したいと思うのは、おそらくこれまで何度も見ていたそこにあなたが写っていないからだろう。最近では自撮りするのが慣例だから、その場所に行った爪痕を残したいのだろう。スマホがなかった古来でもその場所で歌を詠んだりしているのと同じことなのかもしれない。とはいえそのために行列を作ってまでしたいとは思わないのは天邪鬼だからなのかな。

旅人

最近では家に閉じこもりがちの期間があったが故にここに来てその欲求不満を解消しているんだけれど、一度海外に目を向けると、それどころじゃない状態の国もあったりする。だから旅に出られる幸せはそれができなくなった時にだけ感じることができると多くの人は痛感している。行ってみたいと思ったところに思うがまま行ける幸せを感じつついろんな場所に向かうのだけれど、実は行ってみてもピンとこないのならそれはそれでまた旅の醍醐味だよ。その後悔さえも許されない状況ではないのだからね。その逆も然りで全く興味もなかった場所に偶然訪れて大ファンになることもある。とにかくはいかない理由を振り払って出立することが一番なのかもしれない。かつて松尾芭蕉が奥の細道の序文で、月日は百代の過客にして行き交う年もまた旅人なりと比喩したのも、とにかく行ってみなさい、やってみなさいという誘いはそういうことだったんだろうね。