仮説の欠片

日々

承認欲求

疑問を投げかけるとき、それは一方で承認を求めているという厄介な構造にあるね。例えば専門家と呼ばれる人に、マスクをしないで道を歩いている人がいるけれども、それは公衆衛生としてはまだ未解決な状態なので不適切ですよね?なんて質問するとき、真の意味ではそれを承認されたがっている自我がある。そうだと言ってくれという願いがそこにあるわけだ。ところが思いの外それとは逆の答えが出たりする。例えば十分に他人との距離が取れる外の場合は必ずしもそうではないと。それであなたの自我はすぐさまそれもまた真なりと翻すことになる。要するに回答の内容なんてどうでもよくて自我が承認されることを求めているわけだ。なるほどそういうこともあるとあたかも知っていたかのように振る舞ったりするのがその証拠でもあるね。とにかく投げかけている本質は質問の内容よりも自我が否定されないということに尽きるわけだ。

そのまんま

要するにどうであってもあなたが思うがままでいいということになる。不適切だと思ったあなたも、専門家の意見を聞いて翻ったあなたも、認められたあなたであればそれでいい。だから物事や些細な行動にこだわっているようで実はそうでもないわけだ。誰かにそうであると認めらることが最も大切なことだから、そのまんまでいいと言われることにすべてを翻訳してもいいね。そう思っていたのではないけれどそこで腑に落ちたならそれはもう何も言うことはない。たとえ真っ向から反論したとしても、提案された案に惹かれたならばそれは最初からそう思っていたのと同じということ。だから、究極的にはどうであっても間違いはなくすべてが正解であると解釈していい。それは決して身勝手なわけではなく、そういうものなんだからあれこれそこで悩むだけ無駄だということだね。

信頼

とにかくそんな自分を卑下することもなく、かえって頑固ではなく柔軟であると褒め称えてもいいね。コロコロ風見鶏のように他人の意見に迎合すると、あいつは信頼ならないと揶揄する人がいるかもしれないけれど、それは単なる嫉妬に過ぎないからスルーしていい。とにかく反論や意見を持つというのは、ある意味きっかけに過ぎない。心の奥底では誰かにそれでいいんだよと後押ししてもらいたいからそれを持ち続けている。それを試すときすべてが否定されたところで、実はあなたもそう思っていましたと瞬時に感じることができればそれで十分だし、逆に頑なにきっかけのかけらを大切にしすぎるあまり、本当の気持ちに嘘を重ねるほど辛いことはない。そうやって呪われてしまうと、単なる意見の断片にしがみつくことになり余計に茨の道となる。それが辛いのならすぐさま捨て去るほうがすぐに楽になれるよ。それはプライドや誇りのフリをした単なるかけらにすぎないのだからね。