しなやかさ
面倒
新しいことを始めるのが億劫になってくる。それは年を重ねるごとにどんどん進んでいくね。もちろん体力的にも厳しくなってくるという側面もあるけれど、どちらかといえば気力の低下の方の影響が大きいような感じだね。とにかく今までやってきたことを変えることが面倒くさいと感じるようになる。だからだんだん普段の生活がルーティン化して、一旦それで問題なければその通りにしがちになる。あえて冒険したりして少し変えてみたりするとあらゆるイレギュラーな出来事が起こってしまい、若い頃はなんてことのない出来事でも、だんだん歳を取るといちいち対応しなきゃいかないのが煩わしく感じてしまう。例えばいつもの道中で電車が遅れたりしたら、さっさと別ルートを検索して乗り換えたらいいだけなのに、それも「ま、このまま動くまで待つか」なんて思ってしまう。そんなこんなでかつての親や目上の人たちが言っていた言葉をふと思い出して、老いるということはこういうことか、なんて反芻したりしている。
頑固
こうやって年寄りになるにつれて考え方や行動にバリエーションが少なくなっていくと、しまいには頑として他人の意見を聞かない頑固になってしまうわけだ。ああ、そういうことか、と一人納得している。若い人や周りの人はもちろん良かれと思って色々アドバイスをしてくれるのだけれど、それを受け入れることは普段のルーティンを再構築しなければならない。そうすると思わぬトラブルが起きる可能性があるわけで、そんな思いまでして今の暮らしのリズムを変えたくないと思うわけだ。だから、いくらアドバイスややめたほうがいい習慣などを指摘されたとしてもそれらを受け入れがたいわけだ。それを昔の人は頑固爺などと呼んでいたわけだね。歳を取るということは、生きるための波風を最小限にして残り少ない人生のトラブルを最小化していくこと。それがうまくいくことで長生きも可能になってきたわけだね。
柔軟
そんなあたなは今、歳を取ると頑固になりがちなのが嫌で、できればいくつになっても柔軟性を保ちたいと思っている。おそらくそれは誰しも願っていることだったりもする。目の前の頑固な年寄はもともとそうではなかったかもしれない。ところが体力や気力がどんどん衰えていくことに対応して、どんどん生活のコストを最適化していくことで対応してきたわけだ。朝起きて夜寝るまでの行動をできるだけ同じにして対応していくわけだけれども、それでもいろんな出来事が起こりそれに最小限でも対応することに迫られるわけだね。だから自らコントロールできる部分だけは変化が少ないようにしてしまうわけだ。そうすると話すことややることがだんだん同じようになってしまい、繰り返し繰り返し同じことしか言わない存在になってしまう。新しい情報が得られるのはいつもと違うなにかに対応した時だね。いわば人生の事件が起こらないようにすればするほど頑固になっていくわけだ。はてさてそうやって最適化して長生きをするのか、面倒事に巻き込まれてフラフラしながら生きるのか、いずれにせよあなただけの思い出づくりとなるわけだ。