命のための命

色々

かけがえのない命は自分の命だけじゃない

人ほど命を大切だと考えている生物はいない。かけがえのない命と考え過ぎてそれ以上のものはこの世に存在しないと思考停止している。命は生きている時間だとすると、何はともあれ命を存えること以上の最善はない。これに反論することすらできない。そう、命は大切にする。自分だってほいそれと死ぬなんて嫌だ。しかし生命というものは一方で残酷であって、自らの命をを存えるためには「今のところ」他の命をいただくしかない。これが「今のところ」の生物の基本であるようだ。

野菜を食べると健康になって、若々しく生きられる。動物の肉を食べると体を害し、健康的な生活を送ることができないと言う。ましてや、高等動物を家畜化して殺して食べるなんて野蛮人であると一部の人は主張する。現代の先進国の一部ではお肉は切り刻んでお店に並び、生きていたもとの姿を巧みに隠して、日々口にする罪悪感を少なくするようにできている。

「いただきます」という言葉

植物の生命はなぜか軽んじられ、動物を食べると時に暴力的にそれを批判するのは、おそらく大脳の機能からくる自我に支配された人類だけだろう。野生の動物は腹が減ったら目の前の動物を食べる。もしくは、目の前の植物を食べる。死ぬまで食べる。ただそれだけ。時には自分も食べられる。なぜ食べられるのか。それはたまたまなだけである。昆虫の一部は花の蜜を吸って生きている。花もそれを期待している関係。理想だよね。ウィンウィンな関係。できるならそういう人生を送りたい。それが素晴らしい。誰も傷つけないで生きている。人間もそうあるべきだと考え始める。一方で、茎や葉を食べ漁る昆虫は害虫で悪だから、それは毒薬で徹底的に駆除したりもする。

命の塊である自然をじっと見る

そもそも他の誰の命も奪わず、命を存える生き方が望ましいなんて考えるのは人類だけ。生物を愛しみ、慈悲深き人生が望ましい。体を横たえるだけで気がつかず小さな生物を押し潰してしまうと考え、究極的には宙に浮いているのが最終解脱となる。究極の仙人は霞を食べて生きている。それが理想。そんな思考に囚われると視野がどんどん狭くなる。行き過ぎた思考実験はミクロの世界まで及ぶ。目に見えない小さなものに対して、そこは見て見ぬふりをして神に近づくか、残酷な人類に絶望をして自ら命を絶ってしまうのか。そこまでいくと、それはかけがえのない命を大切にするという命題から大きく逸脱してしまう。

思考実験もほどほどに

思考は虚構である。理想もでっちあげたもの。自然にはそもそも良いも悪いもない。ゲームのルールとそれほど変わらない。生きるルールは随時更新、改定したほうが、生きることそのものを楽しむことに近づき、それこそ人生を丁寧に生きることになる。他の命をいただいた分、楽しく生きるのが命に対する敬意とするのか。それも実はよくわからない。

自分の命として考えてしまうと、自分基準に命を取られるとおかしなことになるようだ。不老不死に憧れる人類でも、「今のところ」数百年後にはほとんど誰も自分を知るものはいない。数百年後には人類の慈悲深さと叡智によって、食べるものもがらっと変わっているかもしれない。100パーセント化学合成された物質で生きているかもしれない。無機化合物から有機化合物に変えて生きるられるならば他の命を奪うことはなくなるのかどうか。そうして守備良く人類も他の生物も、途中途絶えることなく脈々と命が受け継がれているのならそれに越したことがないのか。そもそも人類は絶滅しない永遠の存在なのか。考え始めるときりがないしそもそも答えもない。
だからおいしいものを食べて、不必要に食べ過ぎず、楽しく過ごすのが一番じゃないかな。

    これでいいのだ。