ちょっと何言っているか分からない
同一視
違うものを同じものとしてみることができるのは人の唯一の能力だね。その方法は違いを見つけるよりも同じようなことや似ている性質を見つけることができることで可能になる。その能力が仇となって具体的な視点で始まった違和感が抽象的な視点に簡単に移行してしまうことだ。例えば、絵がうまくなりたくて毎日好きな絵を描き続けているんだけれど、一向に上手になれない。このまま絵を描き続けていてもいいのだろうかという悩みがあるとする。それは具体的に好きな絵だけではなくて、基本デッサンを毎日練習の中に入れるとか、パースとかアニメーションの知識とか、好きな絵をもっと詳細に分析してみるとかいろんな具体的に取り入れることができる対策が見つかる。だからそれらの中から無理なく続けられることを一つずつやってみればいいだけだね。ところが、こんなに毎日描き続けても全く上手にならないのは才能がないからなんじゃないかと疑い始め、そうであるならば人生絶望しかないと思い、それなら生きている意味なんてないとか思ってしまうことが多い。これは具体的な対象から急に自分探しの旅のように抽象的な次元に変わってしまう典型的な例だね。具体的な次元から抽象的な次元まで行き来することができる能力、類推力みたいなものがあるからおかしなことになるわけだ。
仲間
同じ仲間を探そうなんていう幼児期に練習させられる問題があるね。りんご、バナナ、トマト、スイカなんかが絵で書いてあって、おそらくは果物と野菜という抽象化された分類を練習している。りんごを具体的にみるとどういう品種なのかとか、熟れ具合はどうだとか、新鮮かそうでないかとか色々あるね。ところがそのとなりにバナナやトマトが来るととたんに抽象化された認識に切り替わるね。トマトとスイカは野菜という分類となる。野菜と言っても概念の言葉であって実態があるわけではない。そうやって分類する力を養っているわけだね。分類ができるのはそれぞれの具体的な特徴を概念化することができる能力だね。それで全く見かけが違うものを概念で分離することできる。その上で、皆んな違って皆んな良い、なんて喧伝しているけれど、それは仲間外れを生み出す最大の要因になっていることが皮肉でもある。皆んな違うならば対立や孤立もやむを得ないという違いが強調されすぎる嫌いが最近の個人主義においては強い傾向があるね。
言語化
すべては言語を操る能力に直結している。言語によって概念化が進むわけだからだね。言語を持たずに概念化できるかどうかは言語を持ってしまった人類からは類推できない。すべては数値化や言葉化によって見える化されて統計処理や数理処理を施されてデータ分析の基礎資料となる。そんな時代だからこそAI化やDX化が可能になったわけだ。データ分析エンジニアなんていう職種もどうやら生まれているのかな。計算機を使って傾向と対策をデータから抽出する仕事だね。週刊誌を買うような20歳以上の大人は、他人に対する暴力的な行動を否定しない傾向にある、なんてまことしやかに結果を提示したりしている。おそらくはデータをゴニョゴニョいじくり回せばそんな相関関係が見つけられたのだろう。これがどれだけ馬鹿らしいかはデータサイエンティストでない隣のおじさんでもわかるはずだね。実際には全く連動しない中から疑似相関を見つけようとする分析に本来の因果関係などは存在しない。言葉でいうとよくわからないから、りんごとバナナは果物でトマトとスイカは野菜だけれども、食べたら全部甘くて美味しいからカブトムシの餌には適している、って大げさに発表しているようなものだね。余計わかりにくいかな。