見えないもの
見えないものをみるために
見えないものを怖がる。だって捕まえようがないからどうしたらいいかわからないから。見えているものだけを拠り所にして、それ以外は蚊帳の外。そりゃそうだ。誰にも見えないもの。想像するしかないから人によって意見が分かれる。見えないものを見るためにはどうしたらいいのだろう。ずっと人類は探求してきた。
そのためには、まず見えないものがあるということを知ることが第一歩。そして、世界の一部しか見えていないという前提が必要となる。しかし多くの人は見えているものが世界の全てだと思い込んでいる。無理もない。人間の知覚の限界である。ただ一部の人はその好奇心から見えないものを見つけようと今まで探求してきた。知恵を絞っていろいろ試行錯誤しながらなんとか「説明」しようとしてきた。でも、まだまだ見えないものだらけではある。
見えないからこそ感じられること
見えないものに対して白黒はっきりさせて、すべてを解明できれば暮らしは豊かになり、全世界を掌握できて納得できるのだろうか。まずその前提に囚われている自分がいることに気が付かなければならない。見えないものを見なければ物事は解明できないと思い込んでいる前提はどこからきているのか。それは科学という信仰でも旧来の神話でも前提は「説明できる根拠」を探していることに他ならない。
試してみること。そこに意味がある。
見えないからこそ、いろいろと仮説をたてて試してみることしかない。あーでもない、こーでもないと自分なりに試してみるという姿勢が最も大切なことだろう。誰かが作った仮説にのっかってあたかも「自分の見識」のように語ってもいいだろうが、そうなるといつも誰かに心奪われてしまう。その誰かの意見が変わるたびに右往左往してしまう。意地をはって絶対他人の意見に耳を貸さないという姿勢になれということではない。目に飛び込んでくる情報に踊らされないためにも、すでに見えないものと捉えていること自体が誰かの押し付けを受け入れていると知ることが大切。
第一、ほとんど自分すら見えてないのだから。え?そんなことないって? じゃぁ、自分は何者か知っているなら説明してみてよ。名前や性別や性格とか哺乳類とか人間とかそういうのも本当に自分で見たものなのかな?
普段、自分は何を見えていると思い込んでるかに気づくことが最初のステップじゃないかな。