やわらか頭

日々

考え続ける

ほとんどの人は考えることが苦手だね。それには多くの理由があるけれども、考えるにはまずはあらゆるデータが必要だからそれを見たり聞いたり分析するのがまず大変なこと。本を読むにも文字が苦手な人は時間がかかるだろうし、目が疲れるね。検討する材料が集まったらそれらを論理的に並び替えたり、ひっくり返したりして論理計算式をあれこれこねくり回す必要がある。これもとっても骨が折れるね。一般的にこの作業のアウトプットが「仮説」と言われるものになる。ようやくそれができたら次は具体的に実践の場に持ち出して「検証」する作業になる。検証にはいろんな条件を揃えないといけないのでこれまた面倒だ。もちろん完全に同一になんてできるわけがないから余分なノイズはそこから排除しなければならないね。そうやって磨き上げたタマを「実証結果」として、またはじめに戻るわけだ。簡単にまとめると状況把握→分析→仮説→検証という流れをぐるぐる回し続けることになる。

検討中

答えがない問いに立ち向かうのが人生だと言う。確かにすべては未定であり答えがないという視点で見ればそのとおりだね。誰にも正解なんてわからない。わからないからこそいろんな仮説が成立するわけだね。それはとても面倒なことだからだんだん億劫になってくる。だから一旦の仮説をまずまずの正解と考えてそれ以降の検証をやめてしまうことが多くなる。特に意欲が減衰する年齢に差し掛かるとその傾向が強い。だから誰の意見にも耳を傾けられない頑固な老人となってしまうわけだよ。よく言えば意思が固いというか、ぶれないというか、終始一貫という表現になるだろうけれども、その逆は硬直的、単一的で柔軟性もなく外乱や変化に弱いとも言えるね。特にころころ日和見・風見鶏のような性質よりも、初志貫徹とか頑固一徹とかの方が不器用だけれども人徳としては高いというイメージをなんとなく持っている。それも、そうなった人からの刷り込み効果が大きいからだろう。師や先生はまさにそういう段階に差し掛かった人であろうから必然とも言えるね。

しなやかさ

硬直化を防いで柔軟にしなやかに考え続けられるようになりたいのなら、身体と同じようにストレッチするのが効果的かもしれないね。身体も年老いてガタがくると各部の筋が固まってうまく動かなくなるように、思考も同じ仮説と検証をぐるぐる繰り返すようになる。そうすると関節では可動域が減って日常生活に必要最低限の範囲でさえ痛くて支障がでてくる。思考も決まりきったルーティンでぐるぐる周り、新しい変化に対応できなくなってくるね。好きなものも同じになり、普段口にするものも同じになり、飲み物も同じにする。いちいち変えないのは、変えて試してみて失敗するのがもう面倒だからだね。それがひどくなるとあなたの方からいろんな状況の変化に合わせることさえ面倒になって、あなたのやり方を押し付ける側になってしまう。四の五の言わずに黙って従えと命令口調になり、もちろんそうしたところで状況は刻々と変化しているので思った結果にはならない。そのことに憤ってさらに追加であなたのやり方を押し付けるわけだけど、その結果は言わずもがなだね。でもそうなったあなたの気持ちはとてもよくわかるよ。