正義の名のもとに

日々

正しさ

あなたの正しさやうちに秘めた正義は誰かの悪かもしれない。それぐらい時と場所によって正しいことはガラッと変化している。あなたのお家でのルールは他の友だちとは違うことを知っている。それは比較的わかりやすい形で違いに気がつくからだね。とても簡単なこととして夕食の時間が午後9時の友達の家と、午後6時のあなたの家のようにとっても時間が違ったりする。当然その時間の前後にきちんとお腹がすくように身体は順応するわけで、午後9時に夕食を食べている友達からしてみれば、あなたはとても時間が早すぎるように思っている。そんなに早く食べてしまったら夜にまたお腹がすいてしまうので、自分だったらありえないと違和感しかない。ところがあなたからしても、午後9時はおそすぎるし、食べてすぐ満腹でお風呂に入るのは勘弁してと思っている。どちらにしても相手は非常識であり、当人が正しい。それぐらいあやふやであいまいなものでしかない。そんなものに依拠してすべてを正当化するなんて正気なのかと思っていい。こんな事を言うとよくこれに関連する話題での取るに足らない批判がある。殺人は正当化されるのか。自然界に習えばいいね。そもそも正当化という概念を適用することができないし、仲間殺しには必ず理由と制裁がセットになっている。

法治国家

そもそも自然界において、あなたから見て木の葉はほとんど同じように見えるし、カラスはカラス、虫は虫としか見えないけれども、よく観察したことがある人ならすべてをよく見るとほとんど同じようでいてきっちり同じ図鑑通りというものは何一つないことに気づいている。よくよく見ると同じと思っていたそれらにきちんと個性があって、どれもこれもピタリと同じものが実は一つもない。当たり前のように見ていた世界が一変するインパクトがある。だからそれぞれの個性だとか考えなんかをそのままにしていてもある程度秩序が保たれるはずなんだけれども、ある一定の信条を明文化して決めておくのが国家だね。そのルールに支配されているのが近代の法治国家である。その法律も世界を知れば明らかだけれども、未だに原理主義的な国家が実在するし、そこで多くの人がそれに従って生きている。またその信条の違いによって憎しみ合い、場合によっては殺し合いを続けてどちらが正しいかを主張し続けている。夕食が9時の友達の家のことを間違っていると断定し、強制的に夕食は6時と決めつけて従わせるということを平気でやっている。その方が都合がいい人が多くいるからだと正当性を主張するものの、それが絶対的な正義とは言えないことは明確になったかな。

被害者

必ず戦争や犯罪には被害者がいるね。それほど関連性がないのにも関わらず不利益を被ってしまう。あるいは当事者でもないのに被害を受けてしまう。それらはすべて信条や法律を守らなかったから起きる悲劇だ。そして信条は聖域で不可侵であり、法律は絶対正義である。それらを超えたり守らなかったら罰が国家から与えられる。しかしながら国家とは本当は誰なのかを知ることはできない。他のみんながそう言うのか、六法全書に書いてあるからそうなのか、ならその法律は誰が書いたのかまではよくわからない。とにかく悲惨な被害者が何をするにも生まれるのは、皮肉なことににそこに正しさを求めるからそうなる。やられたらやり返すことが正義だった時代もあったし、それが近代になって法の下の平等によって量刑が決まる。しかしそれらは被害者を十分に納得させるものとは限らない。戦争なんて未だに信条という大義名分のために命をかけてやり続けている。世界大戦を防ぐために他の国は口を出せないとしても、自国民の中も情報統制しているのか、本源的に支持しているのかよくわからないまま、今日も世界の空では被害者を生み続けている。人類は思っている以上にそれほど大した生き物ではないのかもね。