なーんだ
欲望
あなたも欲の一つぐらいあるね。もっと趣味を楽しみたいとか、お金がいつも足りない暮らしから抜け出したいとか、もう少し広い家でキッチンの使い勝手がいい物件に住みたいとか、それこそさまざまな夢と希望がそこに思い描かれている。そして心の充足も物質的な充足でカバーできることが多い世の中だから行き着くところはお金の問題となる。だから今では欲望とお金はまるで同類扱いされている。でもお金はあくまで手段であって目的ではない。命を削ってまで手にするような馬鹿らしいことをいとも簡単にしてしまって、後悔ばかりするような時代になった。もっと言えば幸せに生きるという目的をさらに分解すればわかるんだけれど、幸せではなく生きることが最終目的であることは間違いない。金塊を乗せた船が重量オーバーで沈没しそうな時に金塊を海に投げ捨てれば命は助かる。金塊は幸せに暮らすための手段であってそれを大事に抱えて共に沈んだところで目的は微塵にも果たせないね。
国宝
多くの宗教は基本的に偶像信仰を良しとしない。けれど寺院や仏像を見ると謙虚さと気づきを得られるという人もいるだろう。これも手段の一つだとすれば、その仏像の所有欲や執着からくる悪意がなければ問題はないね。それは模型であり印であって、それらがあることで忘れかけた目的を短時間で取り戻せるなら一つの手段としての価値がある。一方で寒くて凍え死にそうな時には木像は遠慮なく薪として焼べてしまおう。それ自体にブッダは存在せず、単なるレプリカなんだからね。教室にある机や椅子と同じというとかなり怒られてしまうかな。仏像は美術的価値、すなわち希少性があるというならそんなものは全部蔵にしまっておいて、レプリカだけ展示しておけばいいと思うんだけれど、本物志向の方々には受け入れ難いことなんだろう。レプリカにできれば仏像の中に災害時や緊急時に役立つグッズも入れて置けるのでさらに価値があると思うんだけれどね。
かぎりある生命
いずれにしても生きるという目的には限りがある。何があっても生き抜くといっても終わりが必ず来る。もちろん誰もが「幸せに」生きたいという思いはあるけれど究極には生き抜くことであることは間違いない。であるならば、普段思い悩んで苦しめられているそれらを再考してみよう。目的と手段がどうなっているかを抽出してみれば、少しは気が楽になるかもしれないね。もし身軽になってホッとしたなら、それは金塊を抱えて海に沈むが如く、手段に執着して目的を見失っていたからだ。幸せばかり追いかけすぎて、生きることを忘れてしまっているようにね。そこに気づけば「なーんだ」と思うぐらい、生きることさえ見失わなければ何もしないでも大丈夫だとわかるよ。