怒りスーパー

日々

短気

すぐに怒る人がいる。常にイライラしている。それはいつも何か怒ることを探しているからだね。もっと言えば怒りたいわけだ。怒ることによって相手に自分を重ねている。怒ることはそれだけ真剣だからと言うバカがいる。真剣だったら怒る暇もないはずなのにね。すべては自分への言い訳の塊でできている。いわゆる自我ってやつだね。そうやって怒る人の世界は自我で満ち溢れていて他者が入る隙間がない。すべては思い通りになる世界に近づけようと悪あがきの結果が誰かに対して怒りをぶつけるという行為だからね。そんなものをいくら正当化してもムリな話で、せいぜいお涙頂戴の同情と共感を媚びるぐらいでしかない。

いじめ

いじめがダメなのは単純に怒りの矛先を大義名分をつけて探しているだけだからだね。しかもその怒りは自我の塊からくる欲求不満が原因となる。ようするにままにならないあれこれをぶつける相手は誰でもいいわけだ。そうやってストレスを発散することで恐ろしい地獄の社会を生き抜く一休みとなるわけだ。それはギャンブルでいっときの享楽に溺れたり、アルコールや薬物の力を借りて逃避することと何ら変わらない。すなわちいじめは社会悪とも言える。だからいじめられたら適切に対処する必要が現代社会では生き抜く知恵となる。それこそ黙って一人で耐え忍んだりしたら、いじめる連中の格好の標的となるだけだから絶対にしてはならない。

アンガーマネジメント

怒りをコントロールできない人が多いのは、熱心さのバロメーターとしてすり替わってしまったからだね。一所懸命にやっていることを茶化したりされると鬱陶しい。だから最初は威嚇だね。邪魔をするならどこかへ行けという意思表示でもある。だから怒りは騒ぎ立てる原始的な手段でしかない。もちろんそういう存在がいるのはあなたの心がそうだからだね。本当に真剣だったり熱中しているならば、怒りを通り越すはずだ。それが威嚇や怒りにとどまっているのはまだまだ真剣味が足りないことを証明しているようなものだ。怒っても何も解決しないことは十分に知っているのに、威嚇として怒りを演出するなら、それこそ凄みが全く違うはずだ。思わずカッとなって、というのはそれを含めての茶番の演技だということにまずはあなたが気がつかないとね。え?ちょっと怒ってるって?そんなことないよ、気のせいだよ。