いっときは何分
時計の針
時を刻む機械を時計と言う。アナログ時計の歴史を少し調べると面白いことに、針がついているのは西洋から伝わった最近のものだということだ。思えば小学校のとき一番最初の壁が時間の計算だった。2時40分の32分後は何時何分でしょうか、なんていう問題がちょっと苦手だった。どうしてかはわからない。けれども60分で1時間という概念と、時計の針が一回り、すなわち360度回転すると1時間とか1分とかになるというのがしっくりこなかった。今では日常生活に問題があるわけではないけれども、なにかそのあたりの回路は欠落しているのかもしれない。
文字盤
時計の針は右回りに回る。あなたはそんなこと当たり前だと思っている。ところがそれらは西洋の時計であって、半日単位で過去から未来へ数字が増えていく形になっているね。ところが日本は古来不定時法といって1時間は60分ではなかった。シンプルに言えば季節によって変わる昼間の時間に合わせて時刻をジャストフィットさせていた。だから実は1時間は60分という固定ではなかったわけだ。もちろんそんなことをするときっちり計算できなくなるので分や秒などの細かいことは気にしなかった。それで十分社会は成立していたし暮らしで困ることもなかったわけだ。現代のようにタイムカードで労働対価をもらうような時代でもなかったからね。
時間は概念
絶対的な時間なんて自然由来のものではなく人間由来の都合よく決めたメモリに過ぎない。1時間は60分でないと困るのは現代社会では皆がそれを基準に行動したり機械を動かしたり止めたりしているからだね。でもそれも現実ではなくて勝手に決めた幻の中、いわばおとぎの国のルールに過ぎない。もっというと西洋の時計が右回りのせいで、過去から未来へ数字が増えていく方向に時が流れていると錯覚している。ところが日時計や文字盤のように針が固定の時計が世界に普及していたら真逆の世界になっているだろうね。針が固定されて文字盤が未来から過去に回っていくからね。そんな世界の時間は未来から過去に時間は流れていると思い込んでいるだろう。もっと言えば現代物理学ではいわゆる人間が都合よく思い込んでいる概念、過去・現在・未来は同時に存在していると言う。すなわち時間という概念そのものが存在しないということだね。最先端の物理学はわからなくても、江戸の人が細かい時刻に縛られなくても何不自由なく暮らせていたことは知っておこう。未来からやってくる時間の世界で過ごした人々はどんな毎日を過ごしていたのだろうね。