それな
考察
明治以降、知識を一括で詰め込んでいく教育が制度化された。いわゆる学校という形式が一般的になった。その中身はどんどん薄っぺらいものになって言われたとおり覚えたりできると100点で、ぼーっと他のことを考えていたりちょっと自分流にアレンジしたりすると0点となる。ここが多感な幼少期を過ごすのに適切ではないことは、世間の常識から少し離れて俯瞰して自分の頭であれこれ考えてみればすぐに気がつくはずだ。気づいたところで他の代替案がうまく見つからないから知らん顔しているのがほとんどの人だろう。物事を考えるにも知識が必須なので、最初のうちはよくわからないから詰め込んだほうがいいだろうというのが落ち着いた理由かもしれない。学び続けるというのは大切なことで、知識を知らずして自己満足や信頼感などに頼ってしまっては正しい判断ができないと孔子も弟子に言っている。かと言って知識ばかりで考えることをやめてしまえばそれもまたよくない。さてあなたはどれほどの考察力が残っているだろうか。
知恵と知識
まずは知ることが必要なのは言うまでもない。ただどれほど知識を蓄えたところでそれを活かす能力が欠落していてはただの物知りになってしまう。それらを分析して現状の問題に当てはめてみる力と、それらから導く根底にある類似点を見つけて原理を発掘できる力が必要だね。ついついこのあたりは考えようとすればするほどいちいちなぜそう考えたかという根拠を探す旅に出ることになるので、実際やってみればわかるけれど、とても細かく面倒で地道な作業となる。そこをすっ飛ばすためにあなたが好む人の言説を無断使用するのが手っ取り早いね。だから、有名人やインフルエンサーの言葉をそのまま自分が考え抜いて出た結論にすり替えるわけだ。それで一端の言論人のフリができる。本当に考えを積み上げていく経験があれば、まずは仮説を立てるところから始まり、その仮説の根拠をうろ覚えや又聞きではなく、その一次資料を探すところから始まる。論文で言うところの参考文献リストだね。真面目に論文を書いたことがある人ならわかるだろうけれども、この作業が一番手間と時間がかかる重要な部分だね。
あなたの言葉
あなたが語る言葉の中で、あなたが本当に生み出した言葉はいくつあるだろう。言葉は世界を作り上げている。言葉がなければあなたもいない。言葉を使えるのは人類だけだ。普段の生活の中で言葉をぞんざいに扱っていないかどうかをチェックするといい。あなたが借り物の言葉を多く語っているのだとすれば、あなたは自らの人生を生きているわけではなく他人の人生を生きていることになる。あなたの本心とは違う言葉を遣うことが多いのなら、あなたは自らの生き方を捨てて、誰かの顔色を伺って生きていることになる。誰か他人の言葉を自分の言葉のようにすり替えて、一見思慮深い人だと演出しているとすれば、誰かにバカにされないように怯えて生きていることになる。自分を守るための嘘が、あなたが思わずしてもさっと出てしまうのなら、あなたはもうすでにあなたではない。どれかに心当たりがあるならいつでもあなたはあなたを取り戻すことができる。その方法はもうすでにわかっているはずだね。