責任は存在しない
前例
そんなこと誰もやったことがないとして、だからそれはやめておいたほうがいいという結論になるのが前例主義だね。でも一方で誰もやっていなかったことが世間に出ると画期的な変革の第一歩になる。ここで重要なのは失敗したらもとに戻せばいいんだからとりあえずテスト的にやってみればいいと思えるかどうか。失敗したら「そら見たことか」となぜかマウント取る人がいるみたいだけれども、誰もやったことがない未踏の実験において最初からうまく行かないことが普通だと知っているはずだね。名人になりたいからいますぐ名人になるにはどうしたらいいですか、なんて質問してくる小学生に閉口するように、今すぐというインスタントな時代になったとはいえ、それはいくらなんでもムリだろうとほとんどの人が思うはずだろう。
挑戦
挑戦は素晴らしいと教えるくせに、一方で失敗はいずれにせよ色んな人に迷惑をかけることになるからそれは悪いことだと言う。こんなダブルスタンダードをそれこそ幼い頃から押し付けられて生きているのが今の子どもたちだね。挑戦するには失敗はセットであって、なおかつ失敗は未来の成功のもとであって決して恥ずかしいことでも悪いことでもない。むしろ良いことであり称賛されるべきことだとなぜ言えないか。それはいつからかわからないけれども自己責任というよくわからない抑制装置が出現したからだね。もしなにかあったらどう責任を取るおつもりですか?なんてしれっと高学歴な記者が質問するけれども、その質問している当人はこれまで誰にも迷惑をかけずきっとうまくやってこれたんだろうね。でないと、他人に向かって人に迷惑かけたらどうするんですかなんていう質問を平気で投げかけられる厚顔無恥にはなれないはずだ。逆にそういう質問をしてそれをやらなかった場合の損失はその記者さんはどうやって責任とるおつもりなんだろうか。
判断
法律で違反していないこと、強制されていない任意なことはそれぞれの判断に委ねられている。もちろんそれが絶対という考えではなく、不具合があればその都度見直していくという前提での話だ。すなわち法律に違反していないから俺が正義というのも思慮が浅いし、かと言って前例がないことだからこそ慎重に相談しつつ進めていくのが本筋だね。その上でもし失敗したらどう責任とるんですかと判で押したようにオウム返ししている人は、すでに思考が停止して決り文句を繰り返し言うロボットになってしまっていることに気が付かない。そんなことよりも、それを実現するためにどういう工夫や支援があればうまくいきそうかどうかという建設的な意見を言えるのが人間だ。とにかく他人をおちょくって正論ぶって批判ばかりしているのも悪くないかもしれなけれども、失敗前提であってもブラッシュアップするために協力する方に加担したほうがせっかくの能力が生かされると思うけれどね。