高慢ちき

日々

善意

あなたは思ったように動けない人を見て、なにか一言物申したくなる。それはもちろん悪気があるわけではなく、純粋にもっとこうしたらいいんじゃないかというアドバイスのつもりだね。ところが言われた方はそんなあなたの気持ちも知らないで、烈火のごとく怒りだしたりする。それに反応してあなたも、良かれと思ってやってあげたのにとあなたも憤慨する。そんなことの繰り返しじゃないかな。すべてが善意でできているのにも関わらず、そうしてリスペクトで溢れている日常が、あっというまに裏返って憎しみに変わってしまう。まさに「地獄は善意で敷き詰められている」ってわけだ。

期待

親しく愛おしいからこそ期待が大きくなる。ついついうっかり、あなた自らのことは差し置いて、こうあって欲しいという理想像に当てはめてしまう。だから小言も多くなってしまうね。でもそれは全体としてはやっぱりマイナスなんだよ。いろんなことが思い通りに行くとすれば、そういう小言ではないのは知っての通りだね。細かい指導や助言が実を結んで成功するなんてことはなくて、ほとんどは思いも寄らない個性が発揮されたことによってなし得るわけだ。だからこそ「おかげさま」という言葉があるように、あなたが介入できる領域なんてほんの僅かでしかなく、ほとんどがいろんなパワーの複合技によって結局はほとんどは期待通りになっている。

教育

そもそも教育とは、力づくであなたが引き上げる何かではない。早く芽を出せ柿の種、と願って水やりをするとき、出てきた新芽を力づくで引き延ばそうとはしないはずだ。あなたができることはすべては間接的であり限定されたごく僅かなことしかない。周りの雑草を抜き、水やりをし、適切な環境をできるだけ整えるわけだ。そうやった苦労を新芽に転嫁したりしないはずだね。だけれども最近の教育はちょっとひん曲がってしまうことが多いような気がする。親のおかげであり、先生のおかげであり、出会った友のおかげであると感じるのはすべては受けた側であって、与えた側ではない。そこを勘違いすると何一つ言うこときかない人に囲まれてしまうし、それがわかればあなたはすべてのパワーに感謝しているはずだね。