褒められたい

日々

執着

いろんなことがあって、いろんな状況が変わることで、いろんな関係を変更する必要が出てくる。特に慣れ親しんだ環境をあれこれと精査して本当に必要なのか、それがないとどうなるのかを検討して不要ならば手放していかなければならない。ところがそこに感情という余計なパラメーターがかなりの影響力を持って、それを阻害する。どう考えてもコストとメリットが見合わないのに、今までずっとやってきたという執着がそれだね。ならなぜそんな執着が生まれるかというと、せっかくここまで頑張ったという未練からくる。さらに考えてどうしてそんな未練があるのかというと、誰かに認められたいという根底がそこに見え隠れしている。単なるモノゴトなんだけれども、それを捨ててしまうことでこれまでこんなに頑張ったんだよという証拠が一つなくなってしまうわけだ。

チャレンジ

実は知らずしらずのうちに執着からくる未練で身動きが取れなくなっている人が多いね。特に伝統とか、体裁とかに重きを置く考えの人に多いかな。一方で変化とか挑戦とか失敗は成功のもとなんて本気で思っている人はそれは起こり得ないね。連綿と続く歴史を大切にすればするほど、その重みばかりが大きくなりすぎてやってみたいことを封印せざるを得ない状況になる。ただしそれはそういう大義をまるで外からやって来るようにみせかけるための口実であって、本当のところは自らそれを生み出していることに気が付かない。だからこれぐらいのチャレンジでもうちの伝統を重んじる風土としては最大限の変化なのです、なんてうそぶくわけだ。他人からしたら、まさに「知らんがな」である。実のところ、くだらない伝統という古臭い鎧を打ち捨てる挑戦の連続で、今があるわけだし、それが連綿と続いて後にそれが伝統になるというのにね。

恐れ

なにかに寄りかかって言い訳を生み出し恐れているのは執着からくる未練であり、その未練は誰かに認められたいという欲望がもとになっている。だから、変革や挑戦し続けられない主たる原因をのっぴきならない理由としてでっちあげた風土や思想や文化や歴史をフル活用してきたわけだ。それでホッとしているのは、だから認められるだろうという安堵だね。サボっているわけでもなく変化を拒んでいるわけでもないけれど、これはいろんな諸事情で仕方がないんだよと言いたいわけだ。それはきっと多くの人はそれはそれは大変なのに頑張っていますねと言って褒めてくれるだろうという目論見がそこにあるわけだ。でもそれも幻であって、そういう状況になっているだろうという一人芝居でしかない。だから、だれもあなたになんて興味もないという現実を受け止めて、言い訳や口実は捨ててどんどん書き換えて行けばいい。そうした方が褒めてもらえること間違いないよ。