椅子取りゲーム

日々

いいとこ取り

良いことだけ欲しがったり、幸せだけの人生を望んだり、夢が叶ってばかりの生活を求めても、それらは幻想ではありそうだけれども現実では存在しない架空の世界だね。現実的にはもう少しだけ楽しい人生を送りたいというのが妥協点かな。でもほんの少しだけという加減が人によってそれぞれだろうし、それを決める単位もないから具体的には決まらない。具体的に決めることができないことは現実で適用できるはずがない。だからそれらはすべて夢物語となり、寝言は寝てから言えとあざ笑われてしまう。しかもその原点というか欲望の源はすべては自我であって、この世界がすべて良くなるとかそういうところには向かっていない。それを指摘された後に世界平和を願っているとか上手にすり替えたりするけれども、見え透いた嘘はすぐにバレてしまう。だって世界の人が平等に幸せになったらあなたが幸せを感じることができなくなってしまうからね。

サバイバル

だから常に誰かを不幸にした分のあまりをあなたがかっさらおうとしているわけだ。家族の幸せを祈るにしても、組織の幸せを祈るにしても、それ以外はちょっと不幸になったり損したりするかもしれないけれども、それは仕方がない、目をつぶろうと言っていることと同じだね。世界から差別をなくし、飢餓をなくし、貧困をなくすために自らの幸せはすべてなくしてください、なんて祈る人は殆どいない。なぜならみずから一人も幸せになれないのに、世界を祈る余裕なんてあるわけがない。さらにあなたが幸せであることをどれほど分け与えてあげようとしても、これも実質的ななにかとして測定できるものではないので難しい。ただし、お金はそれができる。大量の寄付をすることによってそれが達成はできる。でもそれも行き過ぎて自らの生活まで脅かすまでのものは寄付ではなく犠牲となる。結局幸せの総量は全体的に見たら変わらないとしても、あなたの世界がプラスどころかマイナスになるから善行とは言えないね。社会的な善であるならばあなたもプラス、社会もプラスでないとダメなはずだ。

貨幣の総量

お金はそういう形になりにくいものを表すものさしとしては重宝するところがある。それはお金そのものが実態がない記号のような存在だからだね。1万円札そのものは紙切れだ。紙幣そのものの価値は数十円しかないし、現代では現金でタンスに預金している人も少なくなって、今や銀行口座の残高という電子データでしかない。それでも数量的に表すことができるので、お金がたくさんあるのが成功であり有能であり幸せであるという、なんとなくの思い込みでそう思っている。でも実際には幸せとお金は全く関係がないし、ましては有能とか成功とかどうやっても表すことが難しい。年収5千万以上の人は勝ち組といえるけれども、それは年収であって幸せかどうかはアンケートぐらいのデータしか取れないね。意外となんとなく思い込んでいるクソゲーみたいなことだけで世界はできているようだ。