正義より快楽

日々

正義

偉くなくとも正しく生きる、なんていう言葉があるように、あなたはできれば正しくありたいと思っている。でもその正しさは時に事態を悪化させてしまうことも何度か経験しているね。だから正しさを多少捻じ曲げてしまうこともある。そんな過去の経験を今でも思い出して、苦々しく感じたりしているね。それがあなたの人生の汚点となっていつまでも脳裏から離れない。もちろん普段はすっかり忘れているんだけれども、ちょっとしたきっかけで何度も再生されてしまう。そのせいでさらに記憶が強化されて、ああ、それな、って感じでまた心に痛みを感じている。そこまでしてあなたにも他人にも攻撃してくる正義とはいったい何なんだろうか。

正しい憎悪

悪いことは正さないといけない。あるべき姿とは違うなにかになったとき、自律システムでそれが自己修復していくようになっていればいいのに、なかなかそうはいかずどんどん悪化してしまうことが多いと思っている。そもそもその正義とはどこから来ているのかというと、あなたの知らないままに勧善懲悪的な世界観をどこかしこから吸収して、まさに「押し付けられた正義」を学んできたもので、先天的ななにかとはまた違っている。正しさをどれほど問いても良くならないことは知っている。正しくないことに対しての正しさなんてなんの力もないことも経験してきた。そこで悔しい思いを感じるんだろうけれども、その悔しさや憎しみは正義から生まれたものなんだろうかね。正しい憎しみというものは存在し得るから、社会的な事件はずっとこれまでも絶えないのだろうか。

善と快楽

快楽主義なんて言うと蔑まされた目で見られるのだろうか。心地よいことを善としてそれ以外は悪とするというシンプルな考え方なんだけれども、心地よいことばかりが人生ではなく、どちらかというと苦しみぬく人生が正しいと思っている人や、今もその正義のために日々悔し涙を流している人からすると到底受け入れられないかもしれない。ブッダも生きることは苦であると教えた。そういう点では仏教とは特に相性が良くないかもしれない。でも苦はどこから来るのか、まさに四苦八苦で説かれた通りなんだけれども、でもそれは同時にそれらへの「見方」によって七変化するよって教えている。生老病死の4つの苦もそれ自体からは逃れられないかもしれないけれども、それらをひっくるめての今を生きるということであるならば、快楽主義という言葉の印象はともかく、心地よい角度を常にさがすことが善としても問題ないような気がするけれどもどうだろうね。