鏡花水月
事を言に
出来事が起こるとそれを言葉に変換してすぐさま評価する癖がついている。それは良いことなのか悪いことなのかに分類するときにどうしても見ている一部分だけを言語化してすぐさま分類する。まさにそれは直感的に行われることであり、反射みたいな反応だね。ああ、もう最悪と嘆いたら悪いことで、おお、ラッキーだとはしゃいだら良いことになる。ところが、あとになってよくよく考えてみるとそれが良いことだったのか悪いことだったのかがだんだん曖昧になっていく。その瞬間の傾きだけで良いとか悪いとか感じ取って見たものの、出来事は一つだけではなく、ずっと連綿と起こっている変化の一部に過ぎないわけだから、その瞬間だけを切り取って良い悪いとしてもなにかをわかった気になっているだけだね。
微分
でも瞬間瞬間の連続が今となり、やがてそれが過去になり経験となって未来を切り開く原動力になるとあなたは思っている。だから一喜一憂することそのものが今を生きるということだね。喜びも悲しみも全身で受け止めることが幸せの真髄であるとも言える。だから、悲喜こもごもであることは生きることであり、その喜びだけではなく悲しみも辛さも全部引き受けることで命が脈動するわけだ。そしてそれは遊園地のジェットコースターのように、乗車して楽しめる時間は考えているよりもはるかに短い。ただ平坦なコースをぐるりと一周するジェットコースターに並んでまで乗る人はいない。やっぱりドキドキ、ワクワクしてもう見ればすごいことになるんだろうと思いつつ乗車の順番を心待ちにしている。だから幸せになれますようにといいつつ、裏ではそれには同じぐらいの苦しみも与えてくださいとお願いしているわけだ。あなたは無意識かもしれないけれどね。
デコボコ
より幸せを求めるならば、これまで感じたことのない不幸を体験しなければならない。より楽しさを求めるならば、信じられないぐらい退屈な日々を送らなければならない。それらは表裏一体なので片方だけを欲しがるということは、表だけのコインとくださいと言っているのと同じだ。すなわちそれは存在しないことを求めていることになる。逆にいくらあっても足りないと思い続けるのは、存在しないものを求めているからだとも言える。いくらバイクが好きでも数十台もあればとてもじゃないけれども全部乗って楽しむとか、どこかに飾って愛でるとかが一人では限界があるね。いくら好きでも現実的に存在するものはどこかで飽和状態になる。ところが、夢や希望や幸福や充足という幻想はいくらでも存在できる。というか、存在しないから存在しているように幻として生み出すことができるわけだ。だから命を費やしてまでそれを追い求めても何も得るものはないよ。気をつけてね。