安心を手放そう
不思議な経験
ふと気になった靴がたまたまあったので、それを買ったので使い心地を確かめた。新しいものにはテンションがあがるせいもあって、特に問題なく使えそうだと思った矢先、新しい靴のソールが剥がれたりして早速壊れてしまい、げんなりして急いでそれまでの愛用の靴に戻した、なんて経験が誰しもあるだろう。ずっと愛用しているものを新しいものに替えようとしたときに、どちらかの不具合が出ることはよくある体験の一つだね。それでモノにも魂が宿っているような感じがしてますます愛着が湧いてくることになるんだろう。でも、新しいなにかに変えるときも、これまでやってきたことがないことをやろうとするときも、同じようなことを2,3度経験して冒険やチャレンジなんてのは危なっかしくて進んでやろうと言う気にはならなくなってしまったね。
慣性
愛着のあるものとか、いつもの通りのルーティンとか、習慣っていうのはそんなにこだわりはないと思っている。そのはずなのにいざ変えてみようとするととても大きな力がそこに働いていることを感じる。だから変えることに対するワクワク感よりも、その後の喜ばしくない出来事を恐れてしまう。これで十分だから変えることもないと思っているし満足している。だからそのままでいいという習慣があなたの世界のほとんどを決定している要因になっている。一つ一つはどうでもいいとあなたは言うけれど、その小さな一つ一つをいちいち見つけて変えていこうとすれば、とてもじゃないけどすぐにはできないようになってしまっていることに気づくだろう。そういう生活リズムや行動パターンにも慣性の法則が成立しているかのようにね。
習慣
人生のほとんどはそういった特にこだわりのない習慣によってほとんどが決まっている。だから少しでも変化を求める度に不快な経験が襲ってくる。それでもそこに負けないでそんなものだと思って少しずつ変え続けることが大切だね。出来事はどんどん変化することでかつての安定を一時的に失うことになるけれども、それは進路変更するときにわざとまっすぐ走っているバランスを壊すようなものだ。だから一瞬不安定になるのは避けられない。いずれ安定することはわかっているわけだから、中途半端にやめないでトラブルを恐れない方がいい。思い返せばそのトラブルと思っている出来事も、もともとはトラブルだとは感じなかったことの言い換えになっているはずだ。そんなことぐらいで気に病んだり、行動することを恐れたりなんてどうかしてるぜっていうレベルだからね。なんかあったらどうするなんて言う言葉は、おごり高ぶっている神様のような言葉だ。なんかあったら対処する。それがそもそもの生きるということだったはずだね。