どこ見てんのよ

日々

ほら、そこ

あなたにはそれがどう見えているだろう。同じ風景を同じ場所で見ながら風光明媚なさまを語り合うとき、たまにそんなところ見ているのかと意外に思うことがある。遠くの木々の梢に鳥が止まっている。それを指で指しながらほらほら、と言ってみたものの伝わる確率はそれほど高くない。ちょっとズレというかタイムラグもあるから仕方がないとその時は思っているね。ただここでそれを感じていることが大切な気づきだ。それは、誰しもが見たいようにしか見ていないということ。そして見る人によって全くポイントや感想が異なる体験をまさにしている。確証はないし証明も実は難しいけれども、同じ場所にお互いいるんだからおそらくは同じような風景を見ているはずだね。ところが、どこに着目しているかは実は共有し難いということ。もちろんたまに風景に対して説明する看板があったりするけれども、それらのどれをどう見るかは予測不能だね。

夜空の星

これがもっと難しくなるのが星空の共有だね。星空もおそらくは同じように見えているはずなんだけれど、星座に詳しいかどうか、基準の星をみつけることができるかできないかで会話が噛み合うかどうかが変わってくる。月が大きく見える夜ならそれを基準にして探り合うことができるけれども、それさえもなければ一番明るい北極星やベガ、アルタイルあたりを探すのがいいんだけれども、ちょっと細かい話になると視力の違いもあってうまくいかないことが多い。今は便利なアプリがあってスマホで見ている空の方向にかざせばARによって星座名が出てくるようになったから随分と進化したもんだね。この場合は星空を見ているのか、それともスマホを見ているのかよくわからなくなる。もっと言えばスマホにこういうふうに見なさいと強制されてしまっているのかもしれないね。

基準

同じように見ているように思っていても、何かを拠り所にしていることがわかる。そしてその焦点がそれぞれ違っていて似たような基準点が見つかればなんとか会話が噛み合うんだけれども、それがお互い思いも寄らないものであれば途端に意思疎通の難易度が上がる。ま、そういうときにはもはや言葉は必要ないのかもしれない。めいめいがそれぞれの世界で観賞すればよく、そこで感じたそれらはおそらくは全くバラバラなんだけれども何かしら心が動いたという点で共通点があればそれだけで十分なのかもしれないね。そこで人に合わせないといけないとか、観光案内看板に合わせたり、スマホの画面の指示に合わせたりする必要なんてない。この見えている世界は、共通のようで全く違うということを普段忘れてしまいがちだから、色々面倒なことが起こる。だからそれを忘れないようにしないとね。見たいようにしか見えないとはそういう意味でもあるわけだね。