甘すぎず、辛すぎず、美味すぎず

日々

酸っぱいブドウ

普段から毎日果物を食べる習慣がない。だからなおさら大げさに感じてしまうのかもしれないけれど、どの果物を食べてもとても甘くて美味しいね。グレープフルーツにしてもみかんにしてもこんなに甘かったかなと思うぐらいだね。子供の頃の果物は、もちろん美味しかったけれども甘さは控えめというか、たまに渋いみかんにあたったりしてがっかりした思い出がある。もちろん昔のことであっても今書き換えているから、それほど記憶は当てにしてはいけないけれど、酸っぱさの中に甘みがあってもっと複雑な感じだったような気がしている。おそらくどんどん改良され進化して恐ろしく糖度は高くなったようで、今では酸っぱいブドウは受け入れられないんだろうね。

甘さ中毒

レモンなどを除いてはおそらく甘い方が好まれること間違いなしだね。だから品種改良してどんどん美味しい果物を生み出している。その努力の賜物で今やどれを食べてもびっくりするぐらい美味しいことはとても幸せだね。それでもビールは甘くならないし、コーヒーも最近ではとても種類があって、それ自体を語れるほどの知識も経験もないけれどもやっぱり酸味だけよりも少し苦味があったほうが人気があるみたい。いわゆる大人な味は単調ではなく入り混じったそれが好まれる。ところが甘さはそれ自体が中毒性が高くて、一度ハマると抜け出せないぐらいの依存性がある。甘みもおそらくはずっと取りすぎるとそれが基準となってそれ以上の甘みがないと満足できなくなるんだろうね。紅茶と砂糖の歴史を少し振り返れば、そこには奴隷制度やプランテーションという悲しい歴史が横たわっている。

人生いろいろ

良いことばかりを追求するあまり、その影に隠れている苦痛や苦悩に気づいていない。もちろん表と裏の関係なので否が応でも思い知らされてしまう。そうなるとその苦から開放されるための恍惚をさらに求める。そうして幸せなんだか不幸なんだかよくわからなくなってしまうのが、おそらくは幸せだと思い込まされているね。悲喜こもごもあるのが人生であるとは、すべてのものに表と裏があると言っているのと同じ。なら幸せだけとか不幸だけとか、良いことばかり起きますようにとか、悪いことや嫌なことはこの世からなくなってしまいますようにとか、そう願うのはなぜだろう。実はその幸せ感もマヤカシで、誰かに思い込まされたものかもしれない。酸いも甘いも噛み分けてこその人生だとしたら、そのことを知っている人が苦痛の裏側、すなわち潜んでいる幸せを見つけられるというわけだね。