老いたライオン

日々

逆行

もし、幼い頃からずっと変わらぬあなたがそこにいたとしたら。あなたはその人になんと声をかけるだろう。もっと成長しなさいと伝えるだろうか、それともそのピュアな心をいつまでも大切にしてねと言うだろうか。いずれにせよあなたはなんとかこれまで生き抜いた結果として、現状そうなっている。それに不満があるのかもしれないけれども、だからといって後戻りも先取りもできない。そうであるならば今を充足させることを考えたほうが賢明だというのが先人の知恵の大筋だね。老いることは魅力がなくなることだと恐れて、できるだけ若くいようと必死な人が多いのは、若さしか価値がないと思い込んでいる。本当にそうであるならば人生はもっと短めでいい。ところが意に反してどんどん長くなっている。それならそれでいつまでも若さが魅力というだけの世の中から脱却するために、それ以外の魅力を見つけられるようになるほうが生きやすいはずだ。

人工生命

生命が輝くのは若くて十分に身体能力が発揮できる限定された期間だけという価値観は、たしかに老いたライオンが野生では生きていけないのと同じくしたそれだ。だから老兵は去るのみという原理が貫かれている。それならなぜ無駄に人間だけが長生きするのかという疑問が残る。自然の摂理から離れた特殊な社会という空間で生きていることも関係しているのだろうか。社会は自然を摂理として作られておらず、むしろその逆を目指している。徹底的に効率化、合理化を追求して無駄な空白や冗長な設備は排除されていく。それは不合理に長生きする人間のためだね。もはや人間は自然の一部ではなくなったかのような振る舞いをしている。それだから自然との不整合がますます拡大してしまって、若い頃はよかったとなってしまうわけだ。滑稽なことに、若さを手に入れるために必死で、若さのためなら命をも削るような思いを持つ人もいるようだ。

変わる

人は変わるから素晴らしい。川底の石ころも転がってどんどん姿を変え、場所を変え、環境が変わっていく。思えば遠くへ来たものだと思うかどうかは別として、そうやって少しずつでも変わり続けることそのものに価値がある。もちろんとんがった角はどんどん丸く削られてしまって、以前の鋭い角がほしいと思っても叶わぬ夢だ。しかしそのとんがった角にいつまでもこだわっていても、削れてしまったことは戻らない。今の風潮では、それなら角を外科的に手術してつけましょうとなる。あるいはトゲトゲに見えるようなカバーを身にまとって若さを演出しましょうとなる。それが幸せだと思い込まされているからね。丸くなったその姿は、一朝一夕ではできないと言うのに。思考停止してしまった老害を忌み嫌うのは、老いているからではなく、思考停止したからだろう。それは若さとは全く関係はない。若者が若さが正義だと思って老人を叩いているなら、それこそ一番の思考停止であって最も忌み嫌われる対象に片足を突っ込んでいる。それに早く気づくといいな。