記録より記憶

日々

思い出

思い出づくりなんていう言葉が流行って、ものより思い出なんていう風潮がより多くの悩みを生んでしまっている。思い出を記録として見ているのなら、スマホでの撮影がとても重要になってきてしまうね。おそらくほとんどの人はスマホで撮影する時間が旅行時間の大半を占めてしまっているのではないかな。ここ最近のデジタル映像の進化はとても素晴らしく、おそらく世界中の多くの人がそれを求めているのだろう。今生まれた子どもたちは、生まれたときからの記録が両親の小さなスマートフォンにすべて入っている。それらはあなたが何をしたのか、何を食べたのか、何に喜び悲しんでいたかをムービーで記録された人生だ。驚くべきことにこのことはとても素晴らしいことだと信じられているけれども、そのことによってまた大きな悩みを生み出していることに気がついているだろうか。

記録媒体

昭和の時代は、銀塩写真といえば古すぎて大げさだけれどもネガフィルムで科学的に感光して映像を記録した後、印画紙に焼き付けて残していた。だから経年劣化が避けられず、在るメーカーは100年プリントなんていう謳い文句で宣伝していたぐらいだった。セピア色の色あせた写真が思い出なんていう価値観を打ち壊したのがデジタルカメラだね。デジタルデータは原理的に劣化しない。ところがDVDとかSDカードという記憶媒体はモノなので当然劣化する。デジタルデータはその読み出しの法則が狂うと単なるノイズでしかない。ところがその保存形式さえ分かれば解析することができる。だって0と1の単純な信号の塊にすぎないからだね。ところが、それを記録しておくモノが劣化することで、途中のデータが読み取れず今度は0と1でしかないデータが意味不明な単なる羅列のゴミになるわけだ。

記憶

あなたはいろんないい思い出や苦い経験を記憶している。覚えていないことはすでになかったことになっているはずだ。あなたは永遠ではない。おそらくあと100年はなんとかなってもそれ以上はどうだろう。思い出は永遠ではなくすでに徐々に変わっていくものだ。ところが現代のデジタルデータだけが鮮明に残るとすればある意味残酷でもある。要するに経験談は今あなたのために創作されていることを冷酷に突きつける証拠となってしまう。だから思い出はあなたの心の中だけで十分だし、それが寸分違わずあなたの寿命以上に残る必要なんてないね。もっと言えばその時代背景に合わせた作り話のほうが、事実や証拠よりもずっと温かく感じられる。それは、思い出をモチーフにした、あなただけに向けた思いがそこに詰め込まれているからだ。