思いをカタチに

色々

思いだけがある

もともと何もないから、思いが生まれ、それをカタチにする。でもせっかくカタチにしても今度はそれに振り回される。せっかく思いをカタチにしたのに、カタチを壊さないようにそっとそっと扱う。するといつの間にかカタチにした思いが中心となって、楽しみであった思いが苦しみに変わってしまう。あれだけ切望して手に入れたカタチ。そのカタチを守るためにいろんな苦しみが生まれていく。

思いとカタチは同じもの

カタチに囚われて、あれほど楽しみにしていた思いがいつのまにかどこかへ忘れ去られてしまう。これじゃぁ全くの逆じゃないか。なら思いなんて持たない方がいいと何もかも手放そう。そう思えば思うほどなぜか今度は思いが大きくなって、また満たされない思いがどんどん膨らんでしまう。心を無にすることが悟りのように感じて、また心を無にすることにとらわれてしまう。堂々巡りだ。ぐるぐる回っているだけ。

ぐるぐる回ること

そうか。ぐるぐる回るこの思いが世の中のすべてなのか。表面上のカタチにしてしまうと、カタチに囚われてもとの思いからどんどん離れる。カタチは自ら生み出した下書きのようなもの。物事の真髄を見なさいという教えはカタチは単なる方便でしかないよと説いている。

カタチはどんどん変わっていく

カタチはいつか別のものに変わる。もともとは何もなかったところにカタチを作り上げてきた。それは水の泡のように生まれては消えていく運命にある。そうして万物はぐるぐる循環している。思いをカタチにすることがゴールのように考えているけれど、カタチは決して目的地ではないのだな。カタチは便宜上のひとときのもの。だからカタチに執着しては苦しくなる。カタチが変わっていくことそのものを楽しんでいることが、自然な姿なのだろう。

思いをカタチにすることは楽しいこと。どんどんカタチにしてどんどん壊れていく。あらゆる思いをカタチにして満面の笑みを浮かべて人生を楽しむ。それはまるで砂場で遊んでいる子どもたちのように。それが生きるというカタチなのかもしれないね。

今日も言葉という道具で、思いをカタチに縁取る。それが目の前にどーんと広がっている世界を生んでいる。ただただ安心して、楽しんで、それがどんどん変わっていくさまを眺めている。そうして世界と溶け合うことが生きる喜びそのものなんだなぁ。