生きてるのか死んでるのか
バイアス
SNSのその中での議論は極端にバイアスがかかっているから鵜呑みにしないほうがいいと、まことしやかに言われることが多いね。確かにそうだろう。けれでもその発言には自己矛盾がどうしてもつきまとってしまう。それは、そもそもSNSはバイアスが極端にかかっているというバイアスをそれ自身にはらんでいるから。これはどうしても避けられないレトリックで、バイアスという言葉を使った途端にその時点でバイアスから逃れられないジレンマに陥ってしまう。ということは、何ら偏見もなくありのまんま見つめなさいということは同時に到底不可能に感じられる。あなたの色眼鏡を外そうとすればするほど、どんどんバイアスがかかってしまうというわけだからね。
知っている
でも、そういう構造を知っていてあえてそうするならば、それはある意味ありのまんまという意味にもなる。そもそもあなたが見ている世界が何らの歪みもなく見えているわけがないという前提がそこにあるわけだから、歪んでいるのが当たり前となるね。となると見ているそれはあなたが生み出した架空の映像だということに気づくわけだ。さらにそれはあなたが見たいように見ているというバイアスや修正も多いにかかっている。まるでSNSで投稿される理想のわたしのようにね。みんなもそれを知っていて使っているとすれば、その事自体はそのままで歪がない。だから、どんどんそれを知った上で楽しめばいいということになる。
メタバース
Facebookが社名をメタに変えたのは有名な話だね。SNSの寿命もそれほど長くはないし、きっかけは単なる大学のミスコンのためのシステムだったわけで、これ以上広告だけに頼るビジネスモデルは継続性はない。それで舵を切って仮想空間を主たる生業にする企業体へ転換中だ。仮想空間という言葉も現実と対比して使われることが多いけれでも、もはやSNSという仮想空間が現実と混在している状況を見るに、仮想空間は一つの現実空間と大差がなくなることを見越してのことだろう。偏見も色眼鏡もなく現実世界をそのまんま見ることができないわけだから、もはや現実と思しきものもバイアスと修正が大いにかかったどこにもいないあなたがそこにいる。そしてそれはもちろんあなたではなくあなたの自我がアバターとしてそこにいる。そう考えるとすでに仮想空間をさまよっているわけだね。