どっちも正解
意識
自己イメージは当然のことながら全体的な意識の中にしかないね。自分という意識はいろんな意識の中の限定的な部分で構成されている。なぜなら自分以外の認識の方がたくさんあるからね。パラドックスになってしまうが、自分ファーストでその他があると考えがちだ。けれども、また見てもないくせに世界は知らないことが多すぎるということを知っている。そこから類推するに、これが自分だと知っている以上に知らないことがまだまだありそうな予感がしている。ということは、今はまだ思い出していない、あるいはぼんやりと何かがあるということを感じられていることそのものが、自分を超越したなにかがやっぱりあるんだろうという証明になる。さらに深堀りすると、なら自分のことはすべてお見通しなのかというと、それもまた怪しくなるからね。
人生
だから、人生がとか世界がとかそういうことを考えたり感じたりするとき、今知りうる情報をかき集めてようやくなんとかなっている極めて限定されたものでしかないことに気づくかな。海外旅行はたくさん経験したかもしれないけれども、それでもまだ見ぬ国や景色やそこで暮らす人々の様子などはYouTubeでしか見たことがない。しかも、196カ国すべてを見ようと思っても残念ながらそうはいかない。知識としても万全でもうこれ以上は知りうることはないという段階には到底辿り着けそうにもない。その中で人生とは、究極の選択だと思いついたところで、もうひとりの自分はそんなことはない、と笑っているわけだよ。世の中色んな人がいるということは知っていても、具体的にそれはどんな人がどれくらいの程度で分布しているかとかは、もう想像をはるかに超えておそらく死んでもわからない。でもそれを知っているのは面白いわけだ。
知らないのに知っている
そういう意味では、自分の人生を語ったりするのはとても滑稽なことだ。でも語っている自分はまさに真剣だし、そう見えているわけだし、自分にとってはそれが真実だと確信を持っている。一般的にそれが思い込みだと嘲笑されるわけだし、もっと学びなさいと言われる理由だったりするね。狭い世界で重要な決断だ、と息巻いてみてもすでにそれを知っている人からすれば、微妙な笑顔になる。若かりし頃に夢を語って、理想を語って、自分の生きざまを語ったわけだけれども、そんなのは自分でもわかるぐらい稚拙なものだったわけだ。けれども、稚拙だから恥ずかしいとか、知らないからだめだとか、そんな単純な話でもなくそれもまた思い込みに過ぎないね。ということは、すべては限定的な勝手な妄想でしかないならば、どんと胸を張って人生の選択とやらをしっかり選びぬいて嘲笑されたらいい。心配しなくても、それもまた幻想でしかないわけだからね。