暴走気味な私
人生
多くの人は人生の中に夢があり、希望があり、絶望があり、山あり谷ありだと思っている。大きなククリとしての人生がまずあって、その中で悲喜こもごもなドラマがその中で繰り広げられていると思っているね。ところが、地位や名誉が欲しいとか、財産が欲しいとかという欲望にとらわれてしまうと、まさにお金や地位の中に人生がある。もっとわかりやすい例で言うと、例えばなにかに熱中していた頃を思い出してもらえるとわかりやすい。寝ても覚めてもそのことばかりに心が奪われて、生活すべてがそれを中心に回っていたはずだね。それが野球やサッカーやギターや貯金でもなんでもいいね。あるいは初恋の人だったかもしれない。もうずっとそのことばかりが人生のすべてを覆い尽くしていて、人生の中の出来事というよりも、その中にどうでもいい人生があったはずだ。
自意識
人生とかいう言葉は、概念を表した実態のないものを在るように表現した言葉だね。こういうのを一般的に概念といったりする。平和とか平等とか仲良しとかもそうだね。実存しているようで実はどこにもない。あるのはあなたの頭の中の世界だけだね。ありそうで実際探すとどこにもないし、実現しそうで実現しないのはそういうことだ。平等や平和はあともう少しというところまで来ているような気もするけれども、実際にそれがまだまだの地域の住人からは、この世はやっぱり絶望でしかないだろう。見ている風景が違ったら存在したりしなかったりというのは、基本的には幻想でしかない。もちろん理想は夢や希望として生きるチカラの原動力となることは、もはや説明の必要はないだろうけれどもね。
虚構
だからこの世はすべてフィクションでできているというのは言い過ぎだろう。それぞれがその瞬間を生きているわけだから、それがすべてだと定義しても何ら問題はないね。でも、変に小利口になって理屈で何かを分析するときの前提条件がそれほど確固たる事実であるとは言えないということには気をつけよう。私が人生そのものであるわけだけれども、かといって確固たる私が実は存在しているわけではなく、あらゆるものに影響を受けた私しか見つけることはできないんだからね。その中で自らが決着をつけて正しいと思うことをすればいいのだけれども、それが絶対的な正義ではないことを頭の片隅においておこう。そのために人類が編み出したいろんな防御策があるわけだ。思い込んだらひたすらに暴走気味になる私がいるということを知っているということが幸せになる秘訣というのは、そういうことだね。