騒ぐんじゃねぇ

日々

予定

週末は出かける予定だった。先週はお天気が悪かったので断念したけれども、今週は絶好の行楽日和だ。ところがあなたのせっかくの予定が狂い始める。体調が良くないのだ。ずっと楽しみにしていたのに、環境も天気も整っているのに、こういうときに限って体調が思わしくない。もちろん無理をすれば出かけられないほどでもないし、今はよく効く薬もある。さて、あなたならどうするだろうか。絶対ちょっと無理してでも出かけたら、やっぱり来てよかったとなることは目に見えている。けれども、万全でもないのに無理して出かけるのは気持ちとしてはちょっとブレーキがかかるね。大げさに言えばこれもよくある人生の二択となるかもしれない。

何もしない

そもそも何かをしようとしているから、すべての不幸のもとになるわけだ。もっと言えば何もしなくても勝手に何かが起こるから、人生のイベントとしてはそれで十分だとも言える。さらにあなたはイベントを追加しようとジタバタするけれども、それこそ余計なことであって、今風に言えば無駄なことかもしれない。一方で無駄を楽しむために今を生きているとすれば、それは生きることそのものとも言える。杞憂や徒労をどれだけ多く堪能できるかが人生の奥行きを生み出しているのなら、その苦さを楽しむために生まれてきたとも言えるね。もちろんそれらはすべて無に帰するわけだからね。とすれば、何かをやろうとジタバタするのも良いし、何もしないでゴロゴロして過ごすのも良い。優劣をつけたがる現代社会ではあるけれども、そこに優劣なんて言うのは実は存在しないことに気づくだろう。

脱出

何もしないで後悔するとすれば、何もしないということを他人に評価されたときだろう。あなたが決めることをいちいち他人に預ける癖があるのはやめたほうがいい。一日中起きて寝て食べてダラダラ過ごすのが生命活動だ。それ以上は、余計なことで大抵は資源やエネルギーをより多く消費することに繋がる。でもそれを素敵だと思っているのは、その無駄に消費することが商売になっているからだね。そもそも仕事なんてすべては無駄であると言って差し支えない。社会という大量消費装置を生み出したからこそ、その運営コストを捻出するために人々は馬車馬のように労働させられている。働く喜びは賃金と引き換えにすることに決まっているけれども、本来は誰かのために自らが生み出すという活動そのものに喜びがあって、単なる記号である対価ではないね。仕方がないからその喜び度合いを対価としてやり取りしているだけのことだ。もちろんそうしないとその大量消費装置の中ではうまく振る舞えない。だから一部突き抜けた人はその装置から脱出できているわけだ。それは大金持ちでなくても状況が分かれば誰でも脱出可能だ。そのために何かをする必要もないんだからね。