神饌
ご縁
神社にお参りすると、験担ぎというか変な風習にとらわれて五円玉を探したりするね。五円とご縁をかけているだけの語呂合わせに過ぎないんだけれども、そんなちっぽけなことを大事にしているのは悪いことではない。だけどあまりにそれに囚われすぎるのも本末転倒になってしまうから注意しないとね。更に言うと縁というのは今も刻々と起こり続けていてあなたには到底コントロールするなんてことはできないものだから、神様にお願いするときだけ思い出して願うよりも、普段から今に感謝するだけで十分だ。もちろんこだわりたいのであればとことんこだわればいいけれども、それができないこともまた不幸ではなくご縁なんだから素直に受け入れるだけでいいはずだ。
しきたり
お参りのしきたりが昨今では強制力を伴って随分と出回っているみたいだけれども、それも好きにすればいいし、あなたがやりたい方法で自由に決めていい。それを他人がとやかくいうのは神様の前だからこそおかしな話で、いつもこうあるべきだとか、正解はこれだとかこだわっていることすら滑稽な話だ。こだわりはあなたの中で完結するから素晴らしいのであって、それを他人に押し付けるのはまったくお門違いも甚だしい。お作法警察みたいな感じで常に他人の行動を気にしているという時点で、不自由な暮らしを自ら選択していることになってしまう。それから開放されるためのお参りであるのなら、こだわりはあっていいけれどもそれはあなただけのものだからこそ至極のものとなる。
社交場
そもそも神様を祀っている神社に人が詣でるのは、そこが地域の社交場であったからであって、何も無理難題を神様に押し付ける場所ではないね。そこにお供えをするのも、現代の経済学で言うところの「所得の再分配」機能を持つ場所であったからだ。お供えできるものを神様にお供えしたものを、今とても足りなくて困っている人が持ってかえることができる交換場所が神社本来の役割だね。バチがあたるとおもっている人は単に得をしたい人に騙されているだけだ。そもそも神はその程度の包容力しか持たないわけではない。更に言うと所有なんていう概念を持っているわけでもない。お頭付きの鯛にはそれぞれ誰かの名前が書いてあるわけでもない。それに名前を書くような無粋なことをするのは、人がついついしてしまう愚行だ。その愚かさを内省するために神はあなたの心にいつも存在しているんだからね。