どこにもいない

日々

自動運転

普段の生活はまさに自動運転モードだ。いやいやきちんとその都度悩み、苦しみ、考えながら生きているはずだとあなたは思っている。ところが振り返ってみてどうしてそうしたのか、なぜそんなことを思ったのか、なぜ気が付かなかったのか、ということばかりじゃないかな。しかも、なんだか当たり前過ぎてなんとも思っていなかったことが、あなたの目の前からなくなったあとに、必ずそれがとても愛おしく思える。なら、その当時に当たり前でなんとも思わなかったのはどうしてだろう。いつも必ずそれがなくなった後でしか、その奇跡を感じ取ることができない理由は唯一つ。あなたは普段「反応」しかしていないからだ。あなたが自ら思うほど、思慮深い毎日を送っているわけではないことがこれで明らかになったかな。

思考停止

今もなお、実はほとんど思考停止している。脳が省エネモードに切り替わるからね。正しいことや間違っていること、あなたが幸せや不幸だと思っていること、あなたのエゴが社会の常識にすり替わっていること、会社という小さな集団でのルールが人生の全てだと思わされていること、これらはすべて思考停止だからこそ成立する。生まれて間もない頃から基礎教育で権力装置に従うように訓練され、人生のレールみたいなものを植え付けられる。そんなもの冷静に考えてどこにもないものにも関わらず、そこから外れることはときに死を迫られるほど異常に執着している。お金がない、受験に失敗、すれ違う恋愛関係、挙句の果てには就活で内定が決まらないぐらいで死を選ぶなんて自然界ではあり得ないことばかりが若者の死因の第一位だ。皮肉なことにことごとく物心がついたそのときから親や学校に従順に従ってきたからこその悲惨な結果だ。

意見と反応

感情に振り回されて、単なる反応を自分らしさとか、これこそ私の意見だと勘違いしている人がSNSの登場で可視化されるようになった。その感情表現でさえもどこかで誰かがやっていたことを真似しているだけだ。基礎教育ではその区別さえしっかりと教えない。さらに最近では文字を読むのが億劫になってきて、映像や音声でしか情報を受けとめることが難しくなった。これは入出力デバイスがどんどん様変わりしたことが一番の原因だろうけれども、文字は叙情的な表現や、移ろいゆく心の機微を表現するツールではなく、SNSによってできるだけ少なくシンプルな感情を伝えるツールと化してきた。なのでそれらを伝える術は実はどんどん非効率になり手段が少なくなってきているのが現状だろう。もはや自らの意見はどれだったかよくわからなくなっているのが正直なところだね。あなたの意見と言われるそれははてさて誰の言葉の引用だろうか。