それ以外にないこと

日々

悪魔の証明

神様はいるということを証明するには、誰かが神様を見つけるだけでOKだね。残念ながら神様の痕跡のようなものはいくらでも見つかるみたいだけれど、まさに現人神のようにこの方が実は神様です!なんていう発見はできていない。ところが科学信仰の現代でさえ、神様なんかいるわけがない、ということを真摯に科学的に証明することは事実上できないね。これを悪魔の証明と言ったりもするから聞いたことがある人もいるだろう。もともとはこれは誰のものかという所有権をさかのぼって詳らかにするのはかなり困難、もしくはほとんど不可能であることが由来でできた言葉だ。そもそも所有なんて概念上のことであって、土地に名前が書いてるわけでもないし、境界線が存在するわけでもないね。だから相続の経験がある人は、それらを一つ一つさかのぼって間違いないか確認しなければならないという、途方も無い面倒なことであることは知っているはずだ。

科学信仰

これだけ科学が発展した現代でも、それが観測者によって一様でないと証明されない。だから見る人によって変わるようなことはそもそも科学では扱えない。先の所有という概念も実はあなたの世界では常識になっているけれども、そうでない原始的な村社会では必ずしもそうではなかったりする。ただ多くの人がそれを信じる世界だからそうなっているに過ぎない。今では外為市場の数字の乱高下で一喜一憂しているけれども、そうやって暮らしている人が大多数であるからそうなんであって、そもそも自給自足で暮らしている地域にとっては、それほどの影響を受けない。もちろんだからといって今更里山から薪を拾ってエネルギー源にするような生活にもどれるほどの人口でもないから、大問題なわけだけれどもね。そういう意味では科学という信仰に基づいた文明社会では、避けて通れないことであることは間違いない。

ないからある

だからまだまだわからないことがたくさんあって、科学という信仰が揺らいているのも事実だ。なんでもかんでも科学という神様が解決してくれるわけではないことに気づき始めている。もちろんそれでも便利で安全な暮らしを支えてくれているから、それ以上に取って代わるなにかが見つかってはいない。そうなると万能ではないけれども、それを信じ続けることが得策なのは事実だ。ところがそれで苦しみや不幸も同じように生まれている。便利さと引き換えに確実に失い続けているものがあることを知っているね。精神世界でも宗教でもそれは同じことだ。でもこれだけいろんな視点を持ちえたのが人類だけであって、共同幻想の中で幸せに暮らせる人が多い方がいいと言う。ただそもそも野原で駆けずり回って遊ぶよりも、入場料を払って楽しむテーマパークの方が楽しいと洗脳されている。だからお金がないとそれができないから不幸だと大騒ぎしているわけだ。他にもっと楽しいことはこの世にあるわけがないと証明できないのにね。