失敗ツアー
終わるまで
ノーサイドのホイッスルが鳴るまで、攻め込む姿勢は決して止めない。仲間たちの痛みの分までとにかく前へ進むしかない。もうすぐ終わりだと決めつけて立ち止まったりするのは最高にダサい。この心臓が止まるまではよろよろしながらも前に進み続けて最期を迎えたい。そのエネルギーはときに状況が逆転するぐらいの膨大なものとなる。それが日々の練習を決してサボることもないし、一瞬たりとも空白がない密度の濃い今を生きる骨格となるんだ。今を生きろと言われてもどうしたらいいのかまでは言ってくれない。前に進み続けようとする意思のエネルギーが、実は今に魂を焦がすためには必要なんだ。後先考えずにその日暮らしをすればできるわけでもないね。虚仮の一念岩をも通す、なんていうことわざがあるけれども、その一念を備えているかどうかで決まるわけだね。
愚かであれ
先の虚仮という言葉は仏教用語で、コケにするな、というように、愚かであることを指す言葉のようだ。まぁ愚かであっても優秀であってもそんなことはどうでもよくて、一念という今にある心のエネルギーを燃やし続けていれば成し遂げられないようなことはほとんどないということを意味している。特に小利口になってしまうと、失敗するとか成功するとか、かっこいいとかかっこ悪いとかそんなことを判断基準にしてしまう。だから、そもそも一念頼みよりも、実際に手に届くことしかやらなくなってしまうね。だから、それは本当の挑戦ではなく、むしろ手堅くできるところをやっていくだけになる。それでも、考えすぎて頭でっかちになって身動き取れなくなっているよりは随分マシだ。けれども、失敗しそうなことは捨て去るという癖がつくと、狭い世界で閉じこもって生きることになってしまう。
教科書
前人未踏のなにかには、もちろん教科書や参考書はない。だから模範解答なんかもない。それを誰かがやって大失敗するからそれが前例となる。それが生きた教科書を作っていくわけだ。教科書は誰かが失敗してくれたおかげで出来上がっている。言うなれば失敗例の積み重ねを学んでいるわけだね。そこから教訓や真理が導き出されてきたから、今あなたは同じ失敗をせずにらくらくと答えを学んでいるってわけだ。しかしながら、教科書に載っているからといって安心するわけではなく、とにかくやれること、試してみることができることをあなたのその手でやってみることが本当は大切だ。もちろんすべてを試すわけにはいかないから教科書にまとめられているわけだけれども、それをただ暗記して失敗しないだけの人生のために学んでいるのであれば、一旦そこから離れたほうが良い。失敗がだめだとしたのは教科書のせいだね。でも教科書があるから失敗こそが人生だと気づいたのも事実だ。そこであなたは一念発起して何を失敗するかを選ぶことができるわけだよ。