想像できるのはすべて過去

日々

夢は未来を描いていそうで、実は過去に縛り付けられている。そんなふうに言うとちょっと希望がなくなってしまうかもしれないけれども、それには理屈がある。あなたの夢はあなたが見たことがない景色を描き出しているようで、実はあなたがまだそれを言葉にもできない得も知れないものは全く出てこないはずだ。なぜならそれらは想像すらできないはずだからね。だから夢として見えているそれらはすでに見たことがあったり感じたことがあるもの以外は絶対に出てこれないわけだ。せいぜいどこかで見知ったものや感情の組み合わせでちょっと現実的ではないなにかになっているだけなんだよ。要するに組み合わせやロジックがぐちゃぐちゃだから不思議な体験がそこにあるわけだね。

未来

だから、まだ見ぬ全く新しいことが未来に起こると思ってみても、誰にも想像すらできないわけだね。それがこんな感じとかなんとなくの絵にできるのは全部ウソになる。それらは全てもう知っている部品の集まりでしかない。すなわちそれらはすでに過去であって、その断片を張り合わせたなにかでしかないということだね。新しいなにかが想像できないのは、そういう理由によるわけだ。だから正確には普段使っている未来や夢というものは、全くの未来を指し示したものではなくて、すでに知っているものの新しい組み合わせぐらいがせいぜいだね。下手すると既存の職業なんかになりたい、なんて言わされてしまう子どもたちは大人の過去に縛り付けられている弊害さえある。だから将来の夢は何かな、なんて気軽に聞いてはいけないし、そのことがどれほどくだらないことかおわかりだろうか。

希望

だからといって希望を持つなという意味ではない。なんとなくうまく行きそうな予感がする、とかなんとなく楽しくてワクワクする、という感覚だけで十分だと知ることだ。そんな曖昧であやふやなことを拠り所に生きるべきではないと大人は思い込んでいるだろうけれども、そんな大人こそ過去から抜け出せない存在でしかない。当人たちは計画的に将来を見据えてあれこれチャレンジしているつもりになっているけれども、彼らから出てくるのは手垢にまみれて古ぼけた既存のフレームワークしかないわけだ。だから、知らずしらずのうちに親は子どもを縛り付けてしまっている。でもそれが愛情だと思いこんでいるし、良かれと思ってやっていると信じて疑わない。ここのギャップが大きくなりすぎると新たな不幸が生まれるわけだ。もちろんその不幸そのものが良いとか悪いとかではない。それがあるからまだ見ぬ何かに出会ったとき、ああ、これだったのか、とみんなが微笑むわけだからね。そのためにそれはそこにあるわけだよ。