あるのに見えない世界
視野
壮大な景色の前で言葉を失ってしまうのは、そのすべてがあるにも関わらずあなたには見ている範囲しか見えないというもどかしさからくる。そこにあるすべてに包まれていることは感じながらも、その全てを一度に見ることができない。いくら高性能なカメラでその場を切り取ろうとしても、どう頑張ったところでほんの一部でしかない。もちろんその特性を逆手にとって、一部であっても表現をふくらませるようなこともできるだろう。でもやっぱりそれは一部でしかなく、その場にいない人にはその足りない部分を見る人それぞれの経験によって補完してもらうしかない。大きな絵を俯瞰して全部見られるぐらいに離れても、その全体像はつかめたとしても今度はデティールが見えなくなってしまうね。
目を閉じた世界
目で見るそれはいつも全てではない。そのことを常に頭に入れておこう。今は眠りながら歩いているようなもので、目の前に世界が広がっているのにも関わらずスマホに今日の天気を聞いている。本来は空を見上げたらそこに見えるはずのものを最初から見ることを諦めている。隣の人に話しかけるのもSNSでネットに文字を打ち込むことで済ませたりしている。そのほうが情報量がわかりやすいぐらいに絞られて楽だからね。表情や声色、会話のスピードや間から本来は多くのものを感じ取られる能力があるが故に、それらがかえって面倒になる時代だ。その文字面だけで議論したり、論破したりすることはそれほど重要なことではない。そんなこと言われなくてもわかっているくせに、わざわざそうしているのは目を閉じて外を歩いているようなものだね。
制限された世界
調べ物はネットで済ますことが多いね。現代ではネットの情報量がずば抜けている。と同時にネットにない情報はこの世にないことになっている。すなわちグローバルに情報をコントロールしようと思えばできる時代でもある。少し前ではマスメディアが都合の悪い情報をコントロールしていた。それがネット社会になってうまく行かないようになってきた。だからおそらくはネットの情報は玉石混交と言えども信頼性が高いと信じる人も多くなってくるのは必然でもある。あらゆる情報が筒抜けになってきたのは間違いない。ただ、さらによく考えてみれば、そうやって情報の王者となったネットでさえ、検索してひっかからない情報はどうやらあるようだね。グーグルマップに載っていない町や村はいずれ誰も知らないようになる。たとえその場にあなたが立って目の前に広がるそれを見ていたとしてもね。