赤いリンゴはどこにある

色々

言葉と現実

言葉の解像度は事実とは比べ物にならないほど低い。「赤いリンゴ」といえば、ああ、リンゴは赤いよねぇと単純に思い込んでいるけれど、現実にはいろんな色が混じっているし、品種もバラバラだし、赤という色もまた数え切れないほどの表現がある。あまりに解像度を上げてしまうと文学的な表現になって面倒なので「赤いリンゴ」と一旦は表現する。「赤いリンゴ」と聞いて想像するリンゴは、聞いた人の数だけ実は存在している。それじゃぁ基準がバラバラで曖昧すぎるので、写真やイラストで伝えたり絵具で塗ったりするのだが、実はそれも、それを見た人の数だけのリンゴがそこにある。

心の中のリンゴ

おおまかなリンゴをもとに、言葉を駆使して語るんだけれど、どんどん話していけばいくほど認識のズレが大きくなる。どんどんズレていくともはやそれはなんの話だかわからなくなってしまう。え?そもそも「赤いリンゴ」なんてどれのことを指しているの?とまた振り出しに戻る。何度も振り出しに戻ってみても、結局伝えようとしている「赤いリンゴ」は誰の心の中にもない。言葉にした瞬間に架空の存在になってしまうからね。言葉による表現は大雑把な方向を指し示すだけであって、精緻な表現にするにはとても骨が折れる。

幸せの赤いリンゴ

モノとしての「赤いリンゴ」をさらに実体がバラバラの「幸せ」という形容詞で修飾すると、さらに混迷を深める。「幸せの」赤いリンゴっていう表現は、何か特定の一つを表すものではなくて、それこそ「受け取り方」で様々なリンゴに変化する。言葉はこれほど荒っぽい表現技法であることを、まずは確認しなければ伝わるものも伝わらない。レトリックを極めて事実に近づけたとしても、精緻に一致しない。ただ、その性質を利用して、それぞれ勝手な想像を喚起させる道具として活用するのにはいい道具である。

言葉で考えていると

そんな「大雑把」で表現力に乏しい言葉を使って、常に認識して思考して判断している。いいとかわるいとか、幸せとか不幸とか、満たされない思いに苦しんだり、俺の方がえらいとかを導き出していることに気づく。星空を眺めて、あれはオリオン座とか単なる星を思考でつなげて認識している。事実は単にそこに星のように見える光の点があるだけ。言葉の活動のもう一つ重要な機能は、勝手に関連性をつなげていくことにある。理屈が論理が因果がとか難しいことをうんうん考えてるのにも言葉がなければ無理な話である。

そんな特性をもった言葉を使うときは慎重になった方がいい。知っているつもりの世の中の原理は皆言葉でできている。言葉で表現できないこともたくさんあると感じつつも、思考によってでしか論理や因果は考えられないし捕らえられない。ということは、「赤いリンゴ」と同じで、事実とは違う前提を忘れてはいけない。それは事実を表そうとしたけれど、一旦は「大雑把」に設定した架空の設定である。架空の設定から逡巡したところで結論は架空になる。

    考えているつもりのこと、見ているつもりのこと、知ってるつもりのことの中には真実は含まれてないってことだよね。言葉にならないことに真実は含まれているから、言葉遊びは楽しめる範囲でほどほどにしておこう。それがいい。