無駄遣い

日々

不要不急

時代はどんどん効率化に向かって、無駄なことを排除しなければならないというプレッシャーに覆われてきつつある。一方で、人生を彩るエンタメとかゲームとか趣味なんかもその潮流に巻き込まれつつあって、特に経済的にどんどん厳しくなっている。もちろん効率的なスマートな暮らしを否定するわけではないけれども、この時期にカニを食べにわざわざ大金と時間をかけて出かけるなんていうのは楽しみにしている人も多いんじゃないかな。現代の視点でいえば生きるために食べるという行為にグルメは必要ない。かといってよく体験する格安ツアーで経費を抑えたとしても、食事がそれなりでがっかりするものにあたってしまうとちょっと残念な気分になる。かと言って大枚を思い切って叩いたとしてもその後はなんだか虚しさとそのしわ寄せで結局楽しくない代償を払わないといけなくなる。いずれにせよ結果楽しい時間が増えないという切ない状況になってしまうね。

娯楽

ようするに好きなことやあこがれの何かは、辛い毎日があるからより輝くわけだ。わざわざ無駄なことをしたくなるのも、普段から究極に切り詰めたキリキリした日々を送っているからに過ぎないわけだね。だから不要不急は避けてくださいと言われたところで、そんな日常を変えない限りはやっぱりどこかで爆発してしまう。いつも言うのだけれども究極の無駄は生まれてくることそのものに向けられる運命にある。生きるためにはいろんな命をいただくしか方法はなく、その生きている時間に何もしなければ人生そのものを弄ぶしかなくなってしまう。さらに頭でっかちのあなたは、なら生まれてくる意味、生きる意味なんて思考してしまうともう逃げ場所がなくなって苦しいだけになってしまう。

意味

人生に意味はないし、あなたがそこにいる意味もない。たまたま気がつけばそこにいて、たまたま好きだと思いこんでいることがあって、そのために日々を切り詰めて生きている。でもその苦しさのおかげで好きなことがより輝いて見えるし、かけがえのないひとときだと思えるわけだ。そのコントラストを感じるために一般的に言われる無駄は必要なわけだね。無駄のない人生は意味がある人生と同じでどこを探しても見つかるわけがない。今はお金に支配される社会制度の中で生きているから、お金があればなんでも手に入ると勘違いしている。もちろんゼロでは困るのはそういう社会制度だからに過ぎなくて、そこにそれ以上の意味はない。そもそもみんなで信じているからお金には輝きがあるわけで、それも簡単に手に入らないような仕組みになっているから、羨望の眼差しがそこに生まれるようになっている。道端に大量に落ち葉のように有り余っていたら誰も見向きはしない。その仕組みにまったく組み込まれてしまうとそれすらも気がつかず何も見えなくなるから、少しだけ離れて見つめるぐらいが無駄を楽しむコツのようなものだよ。