批判力
認識
ヒトは都合の良いように曲解するのが自然にできる動物だ。それを思い込みと言ったりするけれども、まさにあなたの目の前に広がっているそれは真実ではない。真っ直ぐに世界を受け止めることが基本できないようになっている。そのことをすっかり忘れてしまっているね。だから、何もかもがすべて自分の世界が正しいという前提であれこれと判断してしまう。一方批判家や批評家は世間では面倒な存在として受け止められがちだけれども、きちんとした批判を論理展開してみればわかるだろうけれども、これは結構骨が折れる仕事だ。単なる感情論から仮説をたてて、それを検証できるように様々な参考資料を探し回らなければならない。そうでないと今流行りの「それってあなたの感想ですよね」と言われてしまうからだ。実際はどうなんだという根拠に基づく検証データの実例が挙げられなければ論理展開がそこでストップしてしまうからね。
論破
そうだからといって、批判の対象を論破しても仕方がない。論破は批判とは全く違うことだから注意しようね。論破と言われる行為はその奥底に「悪意」が見え隠れする。それは「あなたのほうが優れている」ということだね。もちろんそれはゼロにすることはできないまでも、一旦落ち着いてひたすら第三者のデータをもとに検証し続けることが学問と呼ばれるわけだね。だから当初は違和感とかなんとなく腑に落ちないもやもやした感情から始まるとしても、それをそのままぶつけてはそれは非難であって批判ではない。その上でそのもやもやとしたあなたの感情が単なる偏見からくる思い込みなのか、それともやっぱりデータでなんとか論理展開できるものなのかを確かめるプロセスが大切だ。そうしてそのプロセスを経るうちに、自らの勇み足を見つけて訂正し、その上で整合性がやっぱりとれない部分のみを抽出していく検証作業をひたすらコツコツと積み重ねていくことになる。
経験値
それが大切なのは、そうするしかあなたの知的財産は増えないからだね。その苦労があなたを形作るわけで、それが人格になってあなたが変化していく。だから昨今のSNSで自らの名前を隠して他人を攻撃するような人たちは単なる感情のはけ口を探しているだけであって、そもそも批判にもなっていない。単に感情に流されて、歪んだメガネで見ている世界が「歪んでいる!」と叫んでいる滑稽な存在でしかない。ただ当人たちはそれに全く気がついていないし、気がつくきっかけも力もない。そのメガネを外すための手順がとても知的である程度の理解力とデータを読み解く統計的な知識も同時に必要となるわけで、そもそもその腕や手がないが故に自分でメガネを外せない。やっぱりいくつになっても基本能力としての学ぶ力が備わってないと、無知から脱出することが困難だね。だから今からでも遅くないのでまずは少しずつ謙虚に学ぶ姿勢をまずは身につけることが、情報コントロールされずに生きられる道だよ。そうなるとずいぶんと生きることがラクになるから、オススメなんだけれどもね。