あなたがいるからわたしがいる

色々

わたしはどこにいる?

わたしが生まれるときは、わたし以外の刺激が生まれたとき。いつもはわたしはどこにいるかははっきりしなくて、誰かに触られたり、なにかされたりしたときにぽこっと生まれる。特に嫌な目にあったときは、なんでわたしがこんな目にとムクムクと湧き上がり、わたしが心を支配し始める。痛い目にあったときには、痛い痛いと感じるわたしが生まれる。わたしがどうしようもなく大きくなるときは、わたしが望まないことにあったときが多いような気がする。一方でめちゃ嬉しいとき、すごく楽しいときはそれほどわたしがはっきりしなくて、あんまりわたしが生まれてこないね。たぶん嬉しいこと、楽しいことと一体になっているからね。だからただ無心に楽しんでいる。

これはわたしのもの

わたしにとらわれて、わたしのものと思っていたものを勝手に誰かが持ち出すと、怒りの感情が生まれる。なに勝手に使ってるんだ。ああ。損した。弁償しろ。賠償問題だ。そういうときはとても疲れる。今の世は、これはわたしのものですと言い続けないとすぐに誰かに奪われてしまうから油断できないね。もともとは誰のものでもないものなのに、ずっと「わたしのもの」と言い続けないといけない。印をつけたり、文字で記録したりしないといけない。所有するということはそれだけで心配の種になっているし、それが災いをもたらすものとなる。挙句の果てにはまだ何もされていないのに、なんかされたらどうしようと妄想にとらわれて夜も眠れない。こうしてわたしが大きくなるとなぜだかどんどん苦しくなる。

わたしが消えるとき

嬉しいときや楽しいときはなぜか心が寛大になっている。普段なら気になってしょうがないことも、なぜか笑って許せてしまう。この違いは一体何なんだろう。怖い目をしていつも誰かをにらみ続けていることをやめて、いつも優しくいることができれば人生の重荷はとても軽くなるのに。何かにこだわって、握りしめているときに限ってわたしが大きくなってしまう。ならば一旦その手を放してみよう。なにも掴まないことが誰もが求めてやまない幸せを掴めるなんて皮肉な世の中だよね。この手は何を掴むためにあるんだろうか。もしかしたら、この手はわたしの手と思っているけれど、もしかしたら違うのかもしれないね。だとすると、よくわからない手が何かを掴んだり放したりしたところで、不幸のもとであるわたしが生まれたりはしないよね。ん?わたしがそもそもの苦しみのもとだなんて。そんなバカな。