勇気ある撤退
暴走
今は成人式とは呼ばず20歳を祝う会とかに名前が変わっているらしいね。で、毎年マスメディアは大人になった若者の愚行を全国から取り寄せて報道しているわけだ。ちょっと不思議なことに社会人として納税の義務を与えられ、それと引き換えに思うように行動する権利が与えられるお祝いなのに、なんだか矛盾しているような感じがする。週刊誌のようにこういう馬鹿者もいるもんだと世間に喧伝することで、なんのメリットがあるのだろう。もちろん多くの若者はこれからの社会の担い手として立派に活躍するだろう。けれども、際立って目立ちたいという欲望に振り回されるがあまりに、あえて社会の迷惑になるようなことをわざわざ選んでする人もいる。であれば、何をやってもどこにも拡散されず報道もされないのなら、目立ちたいという欲望は決してかなわない状況になるはずだね。
同期
報道はそういう若者をあぶり出してやっぱり馬鹿者がいるのかと、それを見てしかめっ面をしたい先輩のニーズに答えている。そう考えるとどっちもどっちだね。それでも毎年、廃止することもなく各地域では集会が開かれるわけだ。普段人が少ない場所が、そのせいで格好のステージになるわけだ。しかも、多くの人に認められないと意味がないという価値観は学校で植え付けられているのが事実だね。その集団というのはかなり特殊で、そもそもは欧米に負けない軍国主義を叩き込むための修練場として学校は設置された理由もあって、同級生という同じ年齢で集まっている変な集団を生み出している。どんな動物でも同世代だけでつるむみたいなことは、リスクヘッジの視点からして不自然な状況だね。軍歌でも「同期の桜」みたいな歌があるぐらいだ。でも多感な幼少期のほとんどがそれだから、必然的に同い年かそうでないかで何かを判断するような狭隘な価値観にすっかり染められてしまう。
年齢
単なる生きている時間の長短で何かを決めるなんて、おかしな話だね。そうではなくて経験に基づく生きる知恵を先人から学ぶことが本質であって、単に数値的に生まれてから同じ時間が経ちましたといって同じにすることがもはや時代の意識潮流とどんどんかけ離れていっているように見えるね。でも結局いいも悪いも先輩・後輩へと連綿とその価値観が受け継がれて伝説となっている。だから、今年もその風習を途絶えさせるわけにいかないという変な義務感と、使命感に駆られて同じようなことをやってしまう。で、それを見てかつて20歳だったお父様たちは馬鹿者と一喝するわけだけれども、彼らにも十分にその責任はあるわけだ。若気の至りということは、おそらく聖人君子でない限り、それぞれの胸に心当たりがあるからね。だから時代が変わっても形をかえて続いていくだろう。本当に断ち切るにはもう式典を廃止することだね。祝うことは他の方法でも十分に実現できることは、すでにわかっているはずだ。