ここはどこ

バイク旅

どこにも行ってない

日常の見慣れた場所から、まだ知らぬ場所を求めて走り出してしばらく経つけれど、毎日思うことや考えることはそれほど変わらない。慣れない生活も最初のうちでしばらくするとあっという間に馴染んでくる。するとまた違う場所を求めてまた走り出す。その場限りの出会いを求めてはいるけれど、それも何度か繰り返すとまたすぐに慣れて日常になる。朝起きて、寝床を撤収して、どこまでいけるかを考えはじめて、なんていう思考の中にどっぷりとはまり、見ている景色はたぶん半分ぐらいも見えていない。あちこちともがいているけれども、なぜだか一歩も動いてないような変な気分になる。

すぐに慣れて飽きる

旅の計画は立てている瞬間にもう半分は終わっていて、実際に向かう時にはほとんど終わっているのだろう。それはそこにある景色の半分もちゃんと見ていなくて、ほとんどが想像通りであり、多少思ってたのとは違っても勝手に修正されてしまうから。よく考えてみるといろんなことが起こるのだけれど、こうして今があることを考えるとどれもこれも大したことはない。それも旅を夢見ている時からすでに確定していたことかもしれない。ずいぶんと走り続けてきたつもりになっているけれど、日常の自分の枠の中からは微塵も外には出ていないことにびっくりする。走りながら思うこと、考えていることは都会のオフィスにいる時とそう大差はない。

旅する自分に酔っている

旅をしたいとあれほど願って、ようやくここまで来たと言うのにどういうことだろう。引きこもりの自分が急に社交的になったりもしない。目の前の大自然で雄大な景色もすぐに見慣れて、まるで最初からそうであったような感覚になってしまう。どこへ行っても同じだなと考え始めてしまうと、なぜか住み慣れたアパートが恋しくなる。究極はそういう日常から逃げ出したく思っていることそのもので完結していることに気がついてしまう。
「そうか、なんだ、そういうことか」と呟く。

丁寧に生きる

旅をしたい、ここにないどこかへと駆り立てられて走り出したけれど、そうしたところで心の中の景色は何も変わってはいない。だからといって旅そのものがつまらないわけでもない。それなりの刺激もあるし不便さを楽しんではいる。旅先で出会う人々ともあそこはこうだったとかそれなりのエピソードも話せるし、失敗したことも笑い話にはなる。でもよく考えてみると普段行き慣れた酒屋で話すエピソードと何がそれほど変わるのか。特段何か大きな違いがそこにはあまりない。

ありふれた日常はどれほどかけがえのないものだったかということにも気づくための旅なのかもしれない。本当に帰る場所は外にはなかったことに気づくためのプロセスに過ぎなかったのかもしれない。どこにいてもそこで丁寧に生きることそのものが生まれてからこれまでの壮大な旅であった。そう、どうであっても、どこにいても、ずっと「旅の途中」だったということだね。今を楽しむ。ここを楽しむ。それだけでよかったんだ。