学びの真髄

日々

学び

学ぶことは真似ることから始まるとよく言われている。語源に関しては興味があれば別途調べてみるといいかもしれない。けれども、言葉を操るにしても、楽器を演奏するにも、初めての料理を作って見るにしても必ずお手本がある。それに沿って同じようにしてみるというのが学ぶことの基本だね。なにもないところから学びは得られない。もっと言えば全く知らないことをある日突然できるようになるのは、奇跡でしかないことは知っている。その原型が学校の教科書となっているのが現代社会だ。だから教科書で触れる物事に規定されてしまうという欠点が最近は露呈している。では教科書以前は何があったかというと、自然であったり、遊びの中であったりしたわけだ。今は学校よりも寺子屋が注目されたりしているのも、型を暗記してまるごと真似するだけではもはや目まぐるしく変化し続ける社会では不足している部分が大きいわけだ。

守破離

そのプロセスを先人は守破離と呼ぶ。まずは型どおりにしっかりと真似ができるまで練習をする。そこにあなたが勝手にアレンジすることを禁じられるわけだ。とても窮屈ですぐにつまらなくなるかもしれないけれども、できるだけ細部までモノマネを学ぶのが第一段階だね。その後、それを少しずつ創意工夫してより良くできないかを試行錯誤する。それは理解度が問われるステージとなる。中途半端にうまく真似ができたからといってすぐさまそれをやろうとすると、わかったつもりの思い込みがそこで明らかになる。良かれと思って試したことがことごとく蛇足となって、真似する型を超えられないという実感を得られるからだ。それで、初心に戻って基本からまた学び直すことが多いね。そこまでいけば、知っているという段階からさらにその次のわかる、理解しているという段階に移行している証拠だね。

サイクル

それで完璧に基本の型ができるだけではなく、それがなぜそうなっているかまで看破できるようになる。それでようやく、ちょっとアレンジしてみようかというところまで到達する。そこで研鑽、試行錯誤するわけだけれども、どれもこれも実はすでに試してみたことがある人がいて、その人からするとその様子を暖かく見守っている段階だろう。それをやり続けることで、ひょんなことからまだ誰も試してみたことがない着想を得られることがある。それがようやくあなた流の何かとなって、今度はそれをあなた自身が磨いていくことになる。学ぶ段階とそれに伴う理解の深さ、体得の度合いが変化していく全部が、学ぶということだね。多くの場合は、最初の忠実な真似の段階で失敗していることが多いから、その後の結果が芳しくないことがほとんどとなるんだよ。