面倒な世の中
面倒くさい
世の中には面倒な作業がたくさん残存している。さらに、あなたはあなたを基準としてそれを誰しもが面倒だと感じるに決まっていると思っている。人にはそういう共感する能力があるから、それはそれで素晴らしいことだ。けれども、よくよく中身を改めて見つめ直してみると、たしかに面倒だと思う作業は一定の共感を得られるのは間違いないけれども、それでもそれに十分習熟している人と、そうでない人の間には超えられない壁があることに気づく。例えばプログラミングに習熟している人からすれば100行ぐらいのコードなら、面倒だけれども書いてもいいかなと思っている。それが初心者やそもそも興味のない人からすれば1行たりとも書きたくないだろう。これはあらゆることでスキルによって面倒の中身が全く異なっていることを捨象しがちなことを表している。確かに誰にとっても、もっと簡単で便利にならないかなと思ってはいる。そこにイノベーションがあるわけだから絶対悪だとばかりもいえないね。けれども、その程度が全く違うわけだね。
関連
一つの知識が次の知識とどんどんつながっていくと、もちろん表面的にはできれば何もしたくないという気持ちは同じかもしれないけれども、理解のスピードや効率の工夫が全く違っている。最近では映像で習得することがメインになりつつあって、たくさんの文章で紡いだ本で学ぶのは効率が悪いと言われる。確かに百聞は一見にしかずという点においてはそのとおりだ。けれども文章を読み解いて文脈を類推し、新しい知識をその他の知識や経験と照らし合わせて関連付けができる人にとっては、わかっているところもわからないところも同じように時間をかけて展開していく映像の方がじれったく感じるね。なぜなら文章に抵抗がない人にとって、文字情報は必要なところだけ拾い読みができるからだ。この世はなんだかんだで言葉でできていて、それは同時に論理ですべてが構成されている。一方で映像も指し示して肉体的に真似をするという意味では優れているけれども、それ以外は時間の尺を必ず使わなければ論理性を担保できないという意味では同じ情報の習得という意味では冗長すぎるきらいがあるね。だからタイパなどという言葉がでてきて、映像だけでなく映画までも倍速で見る人が多くなったもの頷ける。
字幕
だから単なる情報収集における映像の弱点を保管するかのごとく、昨今の映像には当たり前のように字幕が多く入れられているわけだ。かつての字幕は外国語を母国語に変換するために用いられた方法でしかなかったものを、今ではわざわざフォントの形や色どりを変えて、いわば文字も映像化しているね。映像の尺にあわせて入れられる文字数も限られているので、実際に話していることをそのまますべてを文字にするとうざったくなる。しかも再生速度は決められているので、誰しもがその時間の枠の中で読み解かなければならないという不自由さもある。一方で本はあなたが好きなスピードで、なんなら何度でも納得がいくまで読み直すことができる。ただ、文章を読み解くのはそれなりに練習をしないといけないという側面がある。情報化社会で大量の情報が一瞬にして世界中に流れる時代だからこそ、あなたなりのスキルを磨いていくといいね。映像でも文章でもそこから何をどこまで読みとれて、しかもそれを自らの知識と関連させて知恵に昇華できるかどうかが問われる時代だからね。ま、いずれにせよ面倒な世の中だというのは間違いない。