夢と現実の間に

日々

人は夢を見る。寝ているときの夢もそうだけれども、将来のなりたい姿も同じ夢として表現する。夢には多面的な意味合いがそこに含まれた言葉であるけれども、言葉に変換すると因果関係や論理性を帯びて一気に現実に変わってしまう。無秩序で論理が破綻しているのが夢であり、似つかわしくないことの方が夢としての意味合いが強くなる。非現実的なそれは、論理整合性が最も重要視される世界からは一番馬鹿げているように見えるのがミソだね。夢が夢であるということは、そういう意味をもたせることが難しいほどそれらしくなるという側面がある。寝ているときに夢を見ることで、論理性を捨て去って整理しているとも言えるね。実際、無秩序な記憶の断片を非整合な状況で次々に処理することで脳が情報を整理していると言われている。逆に言えばそれほど論理整合性というのは、人間にとっては負担であり不自然なこととも言えるわけだ。

有り難い

なんの根拠も準備も素養もなく、ある日突然今の生き方をガラッと変えるようなことを言い出す。周りからはそんな夢物語みたいなことが実現するわけがないよと揶揄されるのがオチだろう。それはあまりに突拍子もないことで、完全に段取りや予定や順序が破綻しているように見えるからだ。だからといって、どれほど準備をして緻密な計画のもと、必要条件を一つずつ確実に満たしたところで大抵はそれ以外の想定外の何かで実現しない。それはうっかり段取りから外れていた重要事項ではなく、おそらくは思いも寄らない些細なことが多いだろう。そして素養や才能だけでなく、運も味方につけないとやっぱり論理性の塊の現実では実現しないなどと言う。それは、あなたが思いつくステップはその程度ぐらいしか予測不可能だということを表してもいるね。ありえないことが起きてすべてが無になることもあるし、ありえないことがありえないことを引き出すことで首尾よく実現することもある。要するにあなたの夢はいくつもの要素を網羅することはできないということでもある。

自己実現

それでも、思っていたようにうまくいくときもあるから話は厄介になる。それを体験してしまうと、もはやこの世はあなたの支配下にあるような錯覚さえ起きてしまうからね。必要条件がすべて見えて、先が見通せる神通力みたいなものも兼ね備わった気になってしまう。大自然の脅威を前にしても、今の力を持ってすれば必ず打開できる方策があると思い込む。それは大抵は失敗するんだけれども、実はそれがすべてであって、それでいいということでもあるね。それはあなたにとってはかけがえのない経験として刻まれる。さらに言うとそれは二度と同じことが起こらない、唯一のあなたのためだけに起こったものである。それでも人は夢を見る。次の夢はそれを踏まえた上での夢だと思っている。それが生きる力となり、自然の摂理にも逆らっているわけでもない。夢は希望であり、同時に絶望も見せてくれる。結局夢と現実の境目にあなたという何かがぼんやり浮かんでいるんだからね。さて、次はどんな夢を追いかけてみようか。