鏡の向こう
信心
困ったときの神頼みなんて言葉を知っているだろう。日頃から信心深くしているから、大きな厄介事や災いごとはやってこないと信じている。ところがそうはうまくいかなくて、どうしてあなたは自分だけこんなにつらい目に会うのかと嘆き悲しんだりしている。そこであなたは、そうか、そういえば信心が足りないからそうなるのかと独り合点がいってさらに信心を深めたりする。でもよく考えてみたらわかることだけれども、それは神様を信じているわけではなく、あなたにとって良いことをもたらす何かを信じているだけだね。もっとはっきりいうと、神様なんてどこ吹く風で、あなたはあなたにとって良いことをきっとしてくれると思っているあなた自身のエゴを信心していると言った方がいいね。他の誰でもなくあなたにメリットがない神様なんて、あなたにとっては存在すら許されないということだ。
良し悪し
あなたはあなたを中心に良いこと悪いことを分類しているに過ぎない。いわば強力な自己中だね。ま、多少遠慮を入れて割り引いたとしてもこれだけ強い心で信じていれば大丈夫なはずだと、ある意味自らの不幸成分の除去を「外注化」しているだけだね。そう言うとなんだかビジネスのようで反発心が生まれるかもしれない。けれども、あなたの信心は少なくとも神そのものではないことは明白になるんじゃないかな。例えば今思っても見なかった大変な試練がやってきたとして、それも神が今のあなたに必須だからそれをわざわざもたらしてくれたものだと思うわけではなく、神も仏もない苦行を嘆き悲しむだけとなる。その瞬間にあなたにとって神はぽっかり抜け落ちて、あなたの都合ばかりがあなたのど真ん中に鎮座している。それはもはやあなたは不幸に乗っ取られているようなものだ。まさにあなたが不幸そのものとなっている。
祈る姿
あなたは神を本当に信じているのかどうか。それはあなたに訪れた試練がその試金石になる。あなたがどれほど信心して祈りを捧げたとしても、それがあなたにとって思っていたことと違うのであれば、それは全知全能の神の答えだと受け入れることができるかどうかだね。そこで、この世にやっぱり神様なんていないと嘆くなら、もともとあなたは神を1ミリを信じたことがないことが証明される。そう、あなたはあなたにとって都合の良い何かを集めることだけに夢中になっているだけで、逆に言えばそんなあなたに何かご利益があるとすればたまたまそうなっているだけだろう。自然はあなただけのためにあるわけではなく、あなたの思い通りになるものではない。それを知っているにも限らず、それでもどうにかあなたの都合の良いようになれと願っている。多くの神社の御神体が鏡であるのも、祈るあなたをあなた自身で見つめなさいということかもしれない。だってあなたが神そのものなんからね。